出発の朝、近くの病院に行き見て貰うと
ヘルペスとの診断 「何か薬を」と、言ったが
「塗り薬はありません 点滴なら」と言う
そう言われてももう時間もない
家に戻り、母に「ヘルペス、帯状疱疹ですって」と
報告したら、「そりゃ大変、理恵には内緒にして
行きましょう 彼女は大そう心配しやがり屋だから」
と言うではないか
こういうのも、あぐり元気印の要素だと解釈して、出発
兄の淳之介が、母を評して、「ありゃ、元気という病気だ」と
言ったのを思い出す
「ヘエー日本はこんなになっているの」と成田空港を見て
びっくりのあぐり
(中略)
確かに、何があってもおかしくないくらいの、
覚悟のメキシコ行きだった
私など、母がピラミッドの下で一生を終えたとしても
これもあぐり流でいいかも知れない、とさえ思っていた
そんなことを考えているから、疲れの上にストレスが増し
ヘルペスになったに違いない
(中略)
ピラミッドは近くに寄るとあまりの大きさ
さすがにと諦めて、階段に座って一休み
そして、太陽に照らされた母の顔を見た時、私は感動した
こんなに明るい笑顔を初めて見たのだ
一点の曇りもない のびのびとした表情
あぐりさんって、こんなに美しかったかしら、と思った
そして、旅に出て本当によかったと、心から思った
この笑顔だけでも、母の一生は輝かしいものになる
九十一歳の快挙だ
メキシコ料理を毎回食べ、寝込んでしまった私をおいて
メキシコ人のお宅に行き、ダンスまでしたらしい
この旅で、母と私は、初めて一緒の部屋で寝起きを共にした
子供の頃は、一緒の部屋で寝ていても、夜遅くまで
仕事をしている母は側にいなかったし、朝は早くから
美容室に行ってしまっていた
いつでも、”おかあさん” のいる生活を、ここで味わっている訳だ
同じマンションにいても、別々の部屋で暮らしているので
母はどんな日常を過ごしているのかは知らなかった
もっと手がかかると思っていたのに、自分のことは何から何まで
一人でちゃんとやっている
(中略)
「中国に行ってくるわよ」と報告すると
「そう、気をつけてね」と、あっさり言っていたくせに
出発間際になったある日、私の部屋のポストに手紙があった
母は四階、私は九階、と同じマンションの中で別々に暮らしている
家にいないことの多い私への連絡は、手紙とまではいかないメモが
入っている
たとえば「インフルエンザの予防注射をしてきました
あなたもぜひ行ってきて下さいね」などと書いてある
その日のメモの文面はこう書いてあった
「お仕事での旅なので、足手まといと諦めていましたが
もし皆様が了承して下さるのなら、私も一緒に行きたいのです
エイスケ氏が歩いた上海を歩いてみたいのです
日本にいても駄目になる時はダメになるのですもの」と
新聞の中に入ってくるチラシの裏の、白い部分を使ってのメモ
大きな字で書いてある
じーんときた 駄目になる時はダメ、と常に覚悟の毎日なのかも
知れない 何とかして母の願いを叶えてあげたい、と思ってしまう
あぐり流 という言葉がところどころに出る
普通の人とちょっとちがったあぐりさん
1907年(明治40年)7月10日 あぐりさん誕生
1924年(大正13年)4月13日 16才 淳之介誕生
1935年8月9日(昭和11年) 28才 和子誕生
1939年7月8日(昭和15年) 32才 理恵誕生
なんだな…