ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ

私の長女は1984年(昭和59年)生まれ。

 

幼少時代は「エスパー魔美」「小公子セディ」「キテレツ大百科」
「ひみつのアッコちゃん」「魔法使いサリー」などや
「小公子セーラ」「フランダースの犬」「アルプスの少女ハイジ」の再放送の他に
幼児、子供向けのテレビ番組「ひらけ!ポンキッキ」も毎回欠かさず観ていた。

 

もちろんNHK教育テレビの「できるかな」も毎回観ていたよ。

 

「ひらけ!ポンキッキ」では、
おねえさん(木の内もえみ)とおにいさん(山崎清介、砂川直人)、
ガチャピン、ムックが掛け合いをしながら
歌を歌ったりゲームをしたり、
子供の望ましい行動やしてはいけない行動といった
子供向けのルールや道徳をやさしく諭したり…、
という番組で、当時は20%近い視聴率があったらしいから、
子供のいる家庭の多くは、この番組を観ていたはず。

 
この「ひらけ!ポンキッキ」は1993年9月30日で終了し、
翌10月1日から「ポンキッキーズ」に改新された。

 

それまでの「ひらけ!ポンキッキ」は就学前教育としての意味合いが強く、
メインターゲットを幼稚園児、保育園児に置いていたが、
新番組「ポンキッキーズ」は、視聴対象年齢を小学生以上まで広げ
「総合キッズエンターテインメント番組」
として、フジテレビが自信を持ってリニューアル制作した鳴り物入り番組だった。

 

この子供向け番組「ポンキッキーズ」に安室が出演していた。

 

安室は沖縄アクターズスクールのレッスンに明け暮れ、
那覇市立石嶺中学校3年生の2学期の途中から登校せず、
卒業式にも出ていないのだけど、
卒業間近の2月に、東京のライジングプロダクションと契約している。
 
以下、本のコピペ

 

サインをしたのは保護者の私。
マキノ校長は信頼できる人ですし、

契約の話にも納得したのでサインをしたんです。

 

その後、さすがに自分の決断を誰かに賛成してほしくて、
何人かの知人に契約のことを話しました。

 

すると、その中の一人、

かつて歌手を夢見て上京した経験のある地元の歌手が、
驚いた顔で言うんです。
「なんてバカなことをしたの!」

 

芸能界で生きてきた経験のある彼女には、
契約はもっと慎重にするものだと身に染みてわかっていたんです。

 

「ひと言、相談してくれたら良かったのに」
と言われましたが、すべては後の祭り。

 

そうでなくても、芸能界といえば怖い世界というのが一般的なイメージです。
私たちの世代の感覚では、芸能界に入ることは「子供を売ること」であり、
「体を売る世界だよ」と言う人までいたほどです。

 

悶々とした日々が続きました。
できるなら、すべてをご破算にしてしまいたかった。

 

でも、上京の日を指折り数えて待ちながら、
少しずつ荷造りをしている奈美恵の姿を見ると、
なにも言えませんでした。


安室は、1992年(平成4年)、中学3年の2月にライジングプロと契約し、
1992年3月以降、5年毎の更新で専属契約を行い、
ついに国民的歌姫に至るが、
最初の契約から22年後の2014年(平成26年)5月に安室の独立騒動が勃発する。

 

この経緯などについては、長くなるのでまた別の機会に。
安室の引退理由は、どうもこのゴタゴタに起因しているみたいだね。

 

ローラも所属事務所を奴隷契約だと言ってトラブルになっているが、
村社会の芸能界で独立騒動を起こすと、
契約内容の法律的な解釈よりも、
その世界からの村八分的な「排除の論理」が今でも脈々と受け継がれている。

 

例えば、

1986年(昭和61年)の大ヒット曲「無錫旅情」を歌った新人歌手・尾形大作。

 

「給料が低すぎる」とイチャモンをつけ独立騒動を起こし、
以降、芸名・尾形大作が名乗れなくなっただけでなく、
自身が歌ったヒット曲も歌うことが許されず、レコード会社も離反、
また所属事務所に配慮してTVの歌番組からも排除され、あえなく引退。

 

抜群の歌唱力があっただけに、

騒動さえ起こさなければ長く活動出来た可能性が高く、
残念だったね。

 

小室プロデュースで「ASAYAN」からデビューした鈴木亜美。
当時、浜崎あゆみと争うほどの人気があったが、
鈴木の父が
「浜崎あゆみと比べて、給料が低すぎる」
と訴訟を起こして事務所とトラブルになり、
業界の伝統、排除の論理で村八分に…。

 

以降、何度も復帰するが、亜美自身のプライドも高く、
再ブレイクはついに出来なかった。

 

NHKの朝ドラ「あまちゃん」で大ブレークした能年玲奈も独立騒動で干され、
「のん」と改名し、再出発に苦労している。

 

こういうのって、実に多い。

 

話が横道に外れてしまった。
「ポンキッキーズ」に話を戻します。

 

以下、本のコピペ。

 

デビューして3年目に「TRY ME~私を信じて~」がヒットするまでは、
奈美恵はほんとうに売れていませんでした。

 

今にして思えば、それも仕事がなかったという証明だったんでしょうが、
奈美恵はちょくちょく沖縄に帰ってきましたが、
その時の会話が妙にぎこちなくなってしまうんです。

 

私が訊くことと言えば
「仕事はあるの?」
「大丈夫なの?」
と、そんな話ばかり。

 

奈美恵は奈美恵で
「仕事はあるよ。明日戻ったらすぐ仕事」
と言うだけ。

 

ずっと後になって教えてくれました。
その時は、東京に戻っても3日くらい仕事がなかったそうです…。

 

「3年でダメだったら帰ってくる」
という約束が現実になってしまう、と私は思っていました。

 

残念な反面、奈美恵が帰ってくれば

余計な心配をしないですむという安堵の気持ちも、正直ありました。

 

たまにテレビに出るといっても、加藤茶さんと志村けんさんの番組で、
後ろでチアガールみたいにして踊っている程度。

 

ようやくまともに出るようになったのが、
内田有紀ちゃん主演の「時をかける少女」というドラマでしたが、
新聞のテレビ欄に名前の出ることのない脇役…。

 

ようやくレギュラーになったのが「ポンキッキーズ」という朝の番組。
鈴木蘭々ちゃんと一緒に、うさぎのぬいぐるみをつけて、
中から黒い顔を出して踊っていました。

 

「ポンキッキーズ」は毎朝の番組ですから、私も欠かさず観ていて、
「奈美恵も元気にやっているな」
と、元気な様子を確認していました。

 

1993年10月1日から「ポンキッキーズ」が始まり、
安室は1994年4月から、1997年まで「アムロ」という名前で出演し、
以降、安室が忙しくなるにつれて出番が減り、
1997年に降板(出産のため)している。

 

安室がライジングプロと契約したのが
1992年(平成4年)、中学3年の2月だから、
事務所は、安室の売り出しのため、
マキノ校長同様に、多くのオーディションに応募をしまくっていたはず。

 

「ポンキッキーズ」が1993年10月1日からリニューアルされた、ということは、
その半年以上前、つまりライジングプロに契約してからほどなく
「ポンキッキーズ」のオーディションを安室は受けていたことになる。

 

安室自身が
「50のオーディションを受けて、受かるのは1つ」
と言っているので、
安室も、苦しい時期を粘り強く努力していたことが推察される。

 

「NHKのギャラは低い」
というのは定説だから、
事務所としては「実入り」より「露出」というか、
TV画面に多く出ることによる知名度、好感度のアップと、
小学生以上のファン層を創り上げる戦略だったのだと思う。

 

MAX松浦プロデュース、DAVE RODGERSサウンドプロデュースによる
ユーロビート路線第1弾、

安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sの5枚目シングル
「TRY ME ~私を信じて~」
がヒットしたのは1995年(平成7年)だから、
安室が「ポンキッキーズ」出演の約1年後になる。

 

おそらく、安室本人は、今からすれば
着ぐるみのシスターラビッツ(Sister Rabbits)、
「ポンキッキーズ」時代のことは、
忘れ去りたい黒歴史じゃないかな、と思う。

 

でも、売れない低迷期を頑張りぬいて、最後は成功した。
不遇な低迷期にどう頑張ったのか、そこが大事なんだよね。
恥じることはないんだよ。

 

私は矢沢永吉のファンクラブ、

YAZAWA CLUBの100番台という早い会員番号だった。

 

会員番号を見た時は私も意外だったけど、
YAZAWA CLUB自体の認知度が当初低かったせいだと思う。
沖縄に移住してから会員は返上したけどね。

 

なので何度も矢沢のコンサートにはずいぶん行って、
もちろんタオルも何種類も持っている。

 

今では考えられないけど、あちこちの暴走族が

カラフルなツナギでコンサート会場にやって来て、
演奏中に族たちが大喧嘩になり、矢沢が演奏を中断、
「ケンカしたいんだったら、外でやってくれよ」
と言ってた時代もあったね。

 

広島で在日の矢沢永吉は、幼少期に母が蒸発、

父は被爆で矢沢が小学校2年生の時に亡くなっている。

 

その後は親戚中をたらい回しにされ、

父方の祖母に面倒を見てもらい極貧の少年時代を過ごしている。

 

中学時代にザ・ビートルズでロックに目覚め、
ザ・ベンチャーズの広島公演に行って感化され、
高校卒業後にギター1本を持って、夜行列車で上京し、横浜で下車。

 

以降、非情にバンドを移り変わり、やがてキャロルを結成するまで
矢沢は包み隠さず自身の「成り上がり」に書いている。
ま、矢沢ファンなら誰でも周知の話だけどね。

 

安室も不遇な低迷期があった。

 

以下、本のコピペ

 

東京に行った奈美恵が初めて沖縄に帰ってきたのは、
上京して1年ぐらいしてからでした。

 

里帰りではなく、仕事で沖縄に戻ってきたのです。
仕事といっても、今のような華やかで大掛かりなものではありません。

 

那覇空港の近くにスーパー「JUSCO」が新しくオープンすることになって、
そのイベントに奈美恵たちスーパーモンキーズが呼ばれたんです。

 

その話を聞いた時は、嬉しさと不安とが交錯するような気持でした。
どんなふうになっているんだろう…。

 

電話では話していたとはいえ、東京に行ってから初めて姿を見るんです。
それも仕事で来るんです。
本人より私の方がずっと興奮していました。

 

週末の2日間イベントに出て、

那覇市内のホテルに泊まって帰るというスケジュールでした。

 

家に寄る時間はまったくないというので、
私がイベント会場とホテルに出かけて会うことになりました。

 

「JUSCO」の控え室で奈美恵の顔を見た時の第一印象は
「痩せたなあ…」
というものでした。

 

小柄な子だけど、顔はわりとふっくらしていたのが、
ちょっと頬がこけたような顔でした。

 

「痩せたね。ちゃんとご飯食べてるの?」
それが約1年ぶりの再会の、私の第一声でした。

 

仕事のことよりも何よりも体のこと、
健康のことを考えるのが親なんです。

 

それでも奈美恵は
「3キロくらい痩せたかな。

でも、踊りとかやるから体重は落とした方がいいの。

動きが良くなるから」
と、逆にスリムになったことが自慢気のようでした。

 

イベント会場はスーパーの敷地の多目的広場でした。
ガランとした広場に人はチラホラ。

 

いくら沖縄出身のグループといっても、
売れていないんですから、誰も奈美恵たちのことなんて知りません。

 

たまたまその時間に買い物に来た人たちが見ていただけ。
母親と子供連れとか、そんな人たちばかり。

 

デビュー曲の「ミスターU.S.A」など3曲ほどを歌って踊りましたが、
真剣に聴いているのはメンバーの家族だけ、というありさまでした。


そういう不遇な低迷時期があり、

そこを耐えしのんだからこそ、後の成功がある。

 

「ポンキッキーズ」出演は、デビュー2年後の1994年から4年間、
17~20歳の時期になる。

 

シスターラビッツ(Sister Rabbits)のウサギ着ぐるみ時代、
「ポンキッキーズ」出演の翌年「TRY ME」がヒットし、
その後、小室プロデュースで大ブレイクした安室。

 

やがて安室と結婚するSAMは、安室がデビューした1992年に
小室プロジェクトの「TRF」に参加しつつ、
V6やBoA、安室などの振付・ライブプロデュースなども行なっていて、
安室はSAMへの信頼関係がやがて愛に発展した、
いわば職場結婚のようなものだよね。

 

まだ続きがあるけど、長くなるから次回に続きます。