ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ
 

「沖縄アクターズスクール」開校初期、
スターがなかなか育たないことで焦ったマキノ校長は
秋元康にプロデュースを依頼してしまう。

 

秋元は早坂好恵や里中茶美(ISSAの姉)、

奥永知子を売り出したもののブレイクせず、
高額な請求で両者はトラブルに至った。

 

以降、マキノ校長はプロデュースを人任せにせず
自前でスターを養成しようと、歌やダンスに完璧さを求めるようになり、
レッスンはより厳しさを増していく。

 

また、安室を始め、研究生たちもマキノ校長を信じ、
ストイックさを増してスーパーモンキーズが結成された。

 

安室は、多忙なレッスンで中学校は休みがちになっていく。

 

以下、本のコピペ。

中学3年生になると、奈美恵はますます学校を休むようになりました。
もう私が言っても無駄なので、ズル休みを承知で学校に
「今日は熱があるので休みます」
と連絡するようにさえなっていました。

 

すっかり奈美恵のペースにはまって、
ズル休みの共犯になってしまったんです。

 

世間から見れば、
「学校を休ませる親なんて最低」
ということになるんでしょうが、
その頃には私も少し考えが変わってきていました。

 

学校でどんなにいい成績をとっても、
我が家の家計では大学まで進ませることはほとんど無理な話です。

 

親としてはせめて高校までは出てほしいけれど、
奈美恵は勉強が大嫌い。
だったら、勉強以外のことでも、なにかひとつ
将来に役立つ技術を磨いたほうがいいかもしれない。
そう考えるようになったんです。

 

もちろん、その前提は、義務教育ならば成績が悪くても
卒業できるということがあったんですが…。

 

現実はそこまで甘くありません。
出席日数が足りなければ中学校を卒業することは出来ないんです。

 

当時はイジメや登校拒否が社会問題になっていた頃です。
学校側も出席日数のことをしきりに気にして、
私は何度も先生に呼び出しを受けていました。

 

そのたびにアクターズのことを説明するんですが、
いまでこそ沖縄どころか全国レベルで名前の知れ渡っているアクターズも、
当時は
「あんなところに行ったってタレントなんかになれっこない」
というのが大方の反応でした。

 

私自身、その頃もまだ奈美恵が芸能界入りするとは考えていませんでした。
ただ好きなことを思いきりやらせたい、
という一念を繰り返し説明したんです。

 

でも、先生は
「なにをバカなことを言ってるんだ」
という顔で、
まともにとりあってもくれません。

 

逆に、学校に来させるように先生に言われ、
「努力はします」
と答えたものの、半ばあきらめていました。

 

なにしろ、アクターズの仕事はどんどん忙しくなる一方で、
土日になると東京に泊りがけで出かけることも増えてきました。

 

中学3年だけで100日も休んでしまい、
2月頃には、いよいよ卒業単位を得られるぎりぎりの日数になってしまいました。

 

あまりの休みの多さに学校どころか、
ついに県の教育委員会からも呼び出しを受けました。

 

中学の校長と教育委員会の担当者の前に、私と奈美恵。
親の私とすれば何の弁解の余地もなく、
まともに先生の顔を見ることもできず、
ただ下を向いて注意を受けていました。

 

「このままじゃ、卒業できませんよ」
そんな厳しい言葉が投げつけられたときです。

 

奈美恵がはっきりとした声で、こう言いました。
「卒業できなくてもかまいません。
中学の卒業証書があっても将来ごはんが食べられるわけではありません。
私は歌でお金を稼ぎ、立派にやっていきます。
そして、お母さんを楽にさせてあげたいんです」

驚きました。

 

子供の頃は引っ込み思案でいつも隅の方でモジモジしていた奈美恵の口から、
タンカを切るかのような言葉が出たんですから…。

それっきり、奈美恵は学校に行かなくなりました。

「なんとしてもスターになるんだ」
という、安室の覚悟と本気度はすさまじい。

 

マキノ校長はレッスンで、
「そんなんではダメだ!」
「最初からやり直しだ!」
と怒号のダメ出しを何回も研究生たちに浴びせていたに違いない。

 

安室は限界を超えるにつれて、

自身では気づかない潜在的な才能が開花していったに違いない。

 

「知恵ある者は知恵を出せ、知恵無き者は汗を出せ、
知恵も汗も出せない者は会社を去れ!」
私が中学生の頃だったか、
倒産した大商社・永大産業の創業者の言葉だけど、
アクターズ研究生たちの血と汗と涙…、
毎日が地獄の訓練みたいなものだったんだろうね。

 

秋元康プロデュースのおにゃんこやAKBなどでは、
「卒業」というリストラ後は、タレントはほとんど売れていない。

 

本人の実力がないからだけど、
安室やMAXはアラフォーでも完璧なパフォーマンスを演出出来ている。

その違いは秋元とマキノ校長の理念の違いだ。

 

スーパーモンキーズ時代のレッスンの厳しさは
想像を超える域だったに違いない。


以下、本のコピペ

ちょうどスーパーモンキーズとしてデビューが決まり、
上京することになったので、
奈美恵は中学校の卒業式にも出ていないし、
卒業証書ももらっていません。

 

そんなものはいらない、それよりも大切なことがある、
と奈美恵はわかっていたんだと思います。

 

我が子ながら、ほんとうに、ほんとうに意思の強い娘でした。

それはきっと、私の苦労を幼い心でじっと見ていて
自然に学んだことではないでしょうか。

 

勉強ならともかく、意思の強さなんて教えてできるものではないんですから…。

 

「我々は学校のためにではなく人生のために学習すべきである」
古代ローマ帝国の哲学者セネカ

 

「小学校、中学校、高校、大学で教えられることは教育ではない。

教育の手段である」
アメリカの哲学者エマーソン

 

「卒業証書とは、一定の年限学校に通ったことを証明する以外の何ものでもない。

それ以上の意味を持つと信ずべき理由は何もない」
アメリカの経営学者ドラッカー
こういった名言は、安室のための言葉みたいな気がする。

 

以下、本のコピペ

それでも、卒業証書もないというのはやっぱり少し寂しいものだと感じていたら、
その後嬉しい知らせがありました。

 

上京の1年後、日本テレビ系の特番で奈美恵の特集をやる際、
中学で奈美恵一人の卒業式を行うというコーナーがあったんです。

 

わざわざ在校生が奈美恵のために廊下に花輪のアーチをつくってくれて、
校長先生も出席してくださり、
奈美恵はめでたく卒業証書を受け取ることができました。

 

親子ともども感激したものです。
その卒業証書は、卒業アルバムと一緒に、いまも奈美恵が大切に保管しています。

安室は学校を絶ち、芸能界へ盲進した。
そのため卒業式にも出ず、卒業証書ももらっていない。

 

それでも安室が売れたら手のひら返しで卒業認定。
なんか変だよね、教育委員会がだよ。

 

それに、先週末の9月29日(金曜)の県議会では、
翁長知事が安室に「県民栄誉賞」を授与する考えを示した。

 

安室の25年の国内外での活躍を「県民の誇り」とたたえ、
「県民の皆さまは十二分に理解している。
実績を踏まえ議論し、期待できるような形で物事が進むと思う」
と県民の理解を得て、授与する方針を明らかにしたのだけど、
なんか調子がいいな。

 

安室は、断りはしないだろうけど、ありがた迷惑なんじゃないかな。

政治利用されてはダメだよ!

 

沖縄はたしかに安室の故郷で兄や姉の家族が住んでいる。、
育んだ14年間は貧困だったし、後に母が殺されたのも沖縄だ。

 

沖縄での14年、東京で25年…、東京暮らしの方が長い。
引退後は沖縄に戻らず、京都に住むようなウワサもある。

 

「県民栄誉賞」なんかもらったら、
授与式、祝賀会、パーティなどで挨拶したり、
あちこち引き回しの刑にされるのがオチだ。

 

ちなみに、沖縄の「県民栄誉賞」では、
沖縄を全世界に知らしめた英雄・具志堅用高が授与されていない。
これって、変だよね。

 

過去に「県民栄誉賞」を受賞したのは、
・1999年(平成11年4月)沖縄尚学高等学校野球部

                  (春の甲子園で県勢初の優勝)
・2008年(平成20年10月)上与那原寛和

                (北京2008パラリンピック男子車いすマラソン銀メダル)
・2010年(平成22年9月)興南高等学校野球部(甲子園春夏連覇)     
・2010年(平成22年12月)宮里藍

                (全米女子プロゴルフツアー日本人最多勝 ツアー5勝)
・2016年(平成28年11月)仲里進

                (リオ2016パラリンピックウィルチェアーラグビー銅メダル)

この受賞メンバーを見ると、安室の受賞は当然といえるけど、
「沖縄県県民栄誉賞」を設けたのは、1999年(平成11年)、
沖縄尚学高が春のセンバツで優勝したことに起因している。

 

なので、受賞者は1999年4月以降になっているのだけど、
こんなの、さかのぼって受賞させてもいいはずだ。

故人だけど、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)や瀬長亀次郎だっていいはずだ。

 

近代の沖縄で最大の英雄といったら具志堅用高だし、
復帰前年にデビューして日本のアイドル1号といわれる南沙織だって
受賞させてやれ!