ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ
 

「沖縄アクターズスクール」の特待生といっても、
最初は一番下のクラスでのレッスンで、
当初は積極性が見られなかった安室だったが、
1989年、琉球放送の
「HOT NIGHT沖縄アイランド」
という番組での
「ちびっ子カラオケ大会(8月1日O.A)」
で安室が優勝(準優勝は天久美奈子Mina)し、素質が開花していく。

 

以下、そのあたりの文面をコピペ
アクターズに入って3カ月目くらいのこと。
ちょうど夏休みで、地元テレビ局の「沖縄アイランド」という番組の中で、
夏休み特別企画として「チビッ子カラオケ大会」が開かれたんですが、
奈美恵はそれに出場したんです。


校長の指示ではなく、

アクターズの友達と「出てみよう」ということになったみたいですが、

アクターズからだけでも10人くらい出ていて、
そのうち4人が予選を通過して決勝進出。


その中に奈美恵もいたわけです。
そして…決勝では、奈美恵が優勝しました。


私は仕事でその番組を観ていないんですが、
奈美恵が歌ったのは、ゆうゆという歌手の「マイナス3℃」とかいう歌でした。


ちなみに、二位は以前スーパーモンキーズにいた久子ちゃん、
三位がいまMAXで活躍している美奈子ちゃんでした。


マキノ校長がそのカラオケ大会を見ていて、
一気に奈美恵の評価は上がりました。


校長は15人くらいのメンバーを集めて、

スーパーモンキーズというグループを結成しました。
その中に奈美恵も抜擢されたんです。


スーパーモンキーズは結成直後から、

2カ月に1度くらいのペースで定期公演を始めました。


そこからです、奈美恵もやる気になり、

アクターズのレッスンも激しさを増していったのは…。

スーパーモンキーズの名前の由来は、マキノ校長の
「お前たちはタレントではなく猿の段階、
でも猿だけじゃかわいそうだからスーパーモンキーズにしよう」
ということで決まったらしい。

 

以下、本の文面コピペ
メンバー15人で始まったスーパーモンキーズも、
そこから競争が始まり、男の子2人を含む7人にまで絞られました。


さらに、これもマキノ校長のアイデアなんでしょうが、

沖縄らしい特徴を出そうということから、

レッスンに沖縄空手の特訓まで加わりました。


朝の5時から、道場に行って稽古をするんです。


空手といっても形だけで、殴り合うようなことはないんですが、
それでも帰ってくると手足があっちこっち青アザだらけ。


また、体力をつけるために、階段を上がったり下りたり、マラソンの特訓をしたり…。

もともと奈美恵は運動神経の悪いほうではありません。


学校の運動会のリレーではアンカーを務めるほど足も速かったし、
空手も短期間で初段を取得しましたが、

小学生にとってはかなりハードな毎日だったと思います。

沖縄は「空手発祥の地」だけあって、県内には空手道場が多い。

 

「沖縄県内には空手道場は300以上ある」
という人もいるけど、
たしかに町では空手道場はよく見かけるよね。

 

今年小学校に入学した私の孫も、空手道場に通っているらしく、
現在はピンクの帯で、来月には昇級試験を受けるらしい。

 

私が本土にいる頃は、空手や柔道、剣道は、
「白帯の次が黒帯」と決まっていたのだけど、
それだと昇段に年月がかかり過ぎ、
生徒のリタイアが相次ぐと道場の経営に支障をきたすので、
いろいろな帯を設けることで、進級を容易にして
飽きさせないような工夫が創り出されたんだろうね。

 

ちなみに、
「ピンクの次は何色?」
と長女に聞くと
「オレンジだったかな?」
と。

 

道場によっても違うんだろうけど、

要するに、帯の色が濃くなり、黒に近づくにつれて級が上がるらしい。
道場経営の戦略にダマされてなきゃいいけどね。

「空手」の発祥については諸説あるけど、
「15~16世紀頃の琉球王国に中国から入ってきた」
という説が多い。

 

豊臣秀吉の「刀狩」のような、
農民の武装解除令が琉球国内で何度か施行され、
農民は素手や農具などを利用した武術を武器の代用として発達し、
それは、当時
「手(沖縄方言でティー)」
と呼ばれていた。

 

琉球王国時代は中国(明、清)と盛んに交流していて、
「手」は中国の拳法と融合して
「唐手(沖縄方言でトゥーディー)」
と呼ばれるようになった。

 

明治時代後期、沖縄県学務課が学校の体育の授業に採用し、
「唐手」は標準語表記の「カラテ」になり、
「カラテ」は大正時代以降に全国に伝えられて「唐手」は「空手」に改名、
また、柔道や剣道同様、「空手」も武道として「道」が付加されて「空手道」になり、
1973年の「燃えよドラゴン!」で世界中に空手ブームが巻き起こった。

 

当時、私は高校3年生だったけど、クラスの男子たちは、

どこで入手したのかヌンチャクをブルース・リー気取りで
休み時間にブンブン振り回すようになり、
それがミスって頭に当たったりして、素質の無さにようやく気づいて
ブームはあっという間に去って行ったのを想い出した。

 

沖縄の町のあちこちに空手道場があるように、
沖縄伝統空手の流派は、
・石嶺流
・一心流
・上地(うえち)流
・沖縄拳法
・空真(くうしん)流
・剛柔流
・硬軟(こうなん)流
・剛泊(ごうはく)流 
・孝武(こうぶ)流
・湖城(こじょう)流
・糸東(しとう)流
・松濤館(しょうとうかん)流
・昭平(しょうへい)流 
・小林(しょうりん)流
・松林(しょうりん)流 
・少林寺流
・中部少林流
・渡山(とざん)流
・日本少林寺唐手道
・本部流(もとぶりゅう)
・本部御殿手(もとぶうどうんてぃ)
・劉衛(りゅうえい)流
・琉球少林流
…、
沖縄にはいろいろな伝統空手の流派があり、
私の孫はどの流派の道場に通っているのかは不明。

 

ま、孫は道場にいつまで通うかもわからないのだから、
私が流派を気にしたところで意味がない。

 

初段になったら見に行ってやることにするかな。

それまでに辞めてると思うけどね。

安室が通った道場は、妙武館総本道場(那覇市辻2丁目2-17)。

 

「沖縄アクターズスクール」の泊(とまり)から
空手道場までは直線距離で3㎞弱。


道中は国道58号線を横断するなど車も多く、信号も多いので、
スーパーモンキーズのメンバーの体力強化であれば、
スクール、道場間は
集団で往復走らされた可能性が高い。

(信号などで休憩できるから3㎞走り続けるわけではない)


安室はアクターズの特待生として、
空手道場の月謝も特待生(マキノ校長が負担)だったに違いない。

 

この沖縄小林流 妙武館総本部 館長・松田芳正氏(78歳)は、
沖縄空手でも有名な偉人らしく、
また、この道場の隣では
「松田芳正三味線店」
がある。

 

松田館長は空手の達人だけではなく、
沖縄の伝統楽器・三線を作ったり、書道の大家でもあるらしい。

 

松田館長は、前に、沖縄のローカルTVで、
「基本は『心技体』、このバランスが大切。
心は精神力のこと。気持ちのこと。

 

ところが、『技』『体』にすこし誤解がある。

 

『技』は、芸術のこと。
そして、『体』は健康、人間尊重のことで、闘うことではない。

 

沖縄の唄には、沖縄の文化、道標が込められている。
学問、医学、空手の道、芸術の道は、すべて一点に通じている。

 

それは、すなわち、人間道。
勉強が出来なくてもいい、学校でさっぱり出来なかった人が
世に出てから大成することなんて、当たり前にあるはず」

こんなこと言ってたよ。

 

松田館長は、安室をよく覚えていて、
「奈美恵はよく努力をしていた。
ふつう黒帯になるのに5年かかるのに、奈美恵は2年で取った」
とインタビューで答えている。

 

安室は松田館長から、武道の技術を体得しただけではなく、
人間道も学んでいたんだね。

 

町の中で石を投げれば当たるくらい空手道場がある中で、
安室は空手でも立派な指導者に巡り合っている。

 

江原啓之氏は
「偶然はない。すべては必然!」
といい、
「必然とはあなたがある意図を継続的に持ち続け、
その結果が目に見える形としても表現された、という出来事です」
と解説しているけど、安室は
「貧しい生活から抜け出したい。
自分が歌手になり働きずくめの母を楽にさせたい。」
そういう一念があり、まさに
「一念岩をも通す」
そのものだね。