ハイサイ、RIN(凛)ですニコニコ
琉球犬、猟犬、縄文犬、天然記念物、トゥラー、 【公設市場で売られている近海魚】

兄貴の夕方散歩の帰りに、
子豚を豚舎に移送している場面に遭遇した。

我が家の近くには、子豚専用の豚舎がある。
ここでは生後2か月、体長60cm前後に育ったら、ふつうの豚舎に移り、
そこで約4カ月で丸々太り、体重が200kgを超えて、
名護市食肉センターに出荷されることになっている。

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豚は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科に分類されている。
イノシシが家畜化されたものが豚だから、
豚はイノシシの親戚のようなもの。

イノシシを追いかけ回したい兄貴にとっては
子豚豚舎にも興味津々で、
兄貴が乱入しやしないかと心配でしょうがない。


先日、脱走子豚を、兄貴が追い詰めて咬みついた事件があった。
その時は兄貴の唸り声と子豚の悲鳴で私が急行し、
事なきを得たけど…。
子豚は兄貴に背中と腹部を咬まれていた。


私は管理者に、とっさに
「脱走した子豚を野犬が咬みついた」
と、ウソ情報を連絡してもうた…。
「兄貴がやった」
とは、口が裂けても言えんさ!
この話は、また後日。

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那覇市の国際通りの近く、牧志の公設市場では、
肉や魚、野菜、フルーツなど食材が山積みになっていて、
東京上野のアメ横みたいな風情がある。

食肉店には、豚の肉の塊やテビチ、顔(チラガー)、
内臓(中身)などが豪快に置かれ、
観光客がもの珍しそうに撮影していく。

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沖縄の食材では、
「豚に始まり豚に終わる」
といわれる豚肉文化で、
豚一頭を、頭から足の先、内臓や血に至るまで食材として使い、
「鳴き声以外は余すことなく食べ尽くす」
といわれている。

古民家には、庭に豚を飼育していた跡が残っているように、
昔の農家や民家には豚小屋があり、
正月や盆などの行事、大事な来客があった場合は
飼育している豚一頭をつぶして、ご馳走にしていたらしい。

【子豚専用豚舎、ここでは生後2ヶ月目まで飼育される】

現在の沖縄は豚肉文化なのに、
琉球では有史以前から棲息していた家畜は牛、馬だけで、
豚、山羊、闘鶏チャーン、烏骨鶏、観音アヒルなどは
中国や南海諸島から輸入されたものだという。

琉球に豚が輸入されたのは察度(さっと)王の時代といわれている。
察度王は14世紀の中山王、
本土では鎌倉時代後半から室町時代前半の時代。


当時、すでに琉球は中国に進貢をしていて、
察度王は二十数回も使を派遣している。


明の創始者であり、初代皇帝の太祖は、
海賊禁圧や密貿易防止を目的として、
民間人の海上交易を禁止する海禁策を発令したことで
自由な外国渡航が出来なくなり、
中国の貿易は、すでに朝貢関係にあった琉球に
ビジネスチャンスを見出した。


鎖国の江戸時代に、
出島で交易していたのと同じようなもの。


太祖は琉球国王察度の、進貢の功績を認め、
福建省の沿岸地区である福州、泉州から、
多数の職人を、家族と共に琉球に帰化させ、
那覇港のすぐ北側、波之上宮の南側というか、
国道58号線を明治橋から松山に向かうと、
泉崎から久茂地にかけての左側のエリアの久米町(当時は村)を、
琉球に移住した中国系移民の居留地として、
一大チャイナタウンをつくり上げた。


なので、今でも久米町には福州園という中国風庭園がある。

【子豚豚舎の周りをうろつくバカ犬】

15世紀中期の史料によると、
明からは3000名を超える移住者があったらしい。

これらの中国系移民は、久米村に居住したことで、
「久米三十六姓」
といわれている。


「三十六姓」とは、36人とか36の姓という意味ではなくて
蔡(さい)、梁(りょう)、鄭(てい)、殷(いん)など
たくさんの姓を意味する言い方。


明と琉球の親善を図り、円滑な交易事業が行えるようにと、
太祖は、外交文書の制作、中国語通訳、進貢船の建造航海技術、
農耕技術に優れた文官、技師、職人だちが厳選されたことで、
進貢の際の船頭や通訳業務員として明琉交易に寄与しただけでなく、
彼らは琉球を中心とした東南アジアとの
ネットワークの拡大を推進する原動力にもなった。


琉球と明の外交や貿易が本格的に開始された1372年ごろ、
三十六姓が久米村に移住してきて、
儒教や漢詩、絵画、三味線などを持ち込んできた。
それが琉球文化へ果たした影響は計り知れないものがある。

三十六姓は、「仏桑華(ぶっそうげ)」も持ち込んできた。
仏桑華とは、お墓に植える花。
日本のヒガンバナ(曼珠沙華)みたいなもので、
沖縄ではアカバナー、つまりハイビスカスのこと。


三十六姓の移住時に、
彼らの食生活に不可欠な「豚」を連れて来島した。


中国人は昔から三度の食事には、豚肉が必要不可欠らしく、
琉球には豚が飼育されていないので、
日常生活に必要な豚肉を得るため、各家庭で豚を飼育した。


当時の琉球王朝は、御冠船(おかんせん)、
つまり中国から冊封使(さくほうし)を琉球に運んだ船が入港の度に、
これをもてなすために大量の豚肉を必要とするので、
王府が国策で養豚場を経営し、
三十六姓から養豚の技術指導を受けていた。


当時の琉球の農村は食糧難で、
大量の飼料を必要とする豚は飼育が難しく
一般大衆に食肉として普及することは出来なかった。


1605年に、進貢船で中国に渡った野国総官、
つまり野村(現・嘉手納町)の官吏が持ち帰った
「甘藷(かんしょ、サツマイモ)」
によって、人間の食べ残しや葉の部分などが
豚の飼料として利用されるようになり、
養豚が普及していった。


なので、
「沖縄の豚肉文化の歴史は約400年前から始まった」
といえそうだ。

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琉球王朝下では、久米村は自治区とされ、
王府の内閣組織から独立して、
知識集団、相談役として一目置かれていた。

1728年に政治の場に登場した蔡温(さいおん)は、
1752年までの25年間、国王を補佐する三司官として
琉球王国の安定した国家経営のために尽力した偉人だけど、
初期の頃に琉球に移住した久米村の名門・蔡氏の出身。
また、仲井間・前知事も久米村の子孫といわれている。


16世紀に琉球の海外貿易の力が弱まると、
久米村に住む中国人たちは次第に琉球を去り、
東南アジアに渡って華僑を築いていく。


1609年の薩摩侵攻後は、
久米村は薩摩や徳川幕府の管理下にありながら、
中国との冊封・進貢関係を続け、
その後の中国と琉球の関係を支える集団となっていった。


1879年の琉球処分とともに、久米村もその役割を失い、
さらに沖縄戦の戦火によって街並みも焼失してしまった…。

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子豚の移送を眺めていると、
古琉球時代の豚の導入だけでなく、
4か月後の死刑、生き物が食べ物になるという現実、
あるいは、畜産業の衰退など、
いろいろなことを憂えてしまう。
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