
長いと思ったGWも、もう後半。
といっても、私や兄貴にとってはGWとか正月とかお盆とか、
関係ないんだけどね。
今日は「こどもの日」か…。
5月3日から今日5月5日まで、
国頭村の奥集落では
「第27回奥ヤンバル鯉のぼり祭り」
が行われ、今日が最終日。
奥集落の河川敷に、約500匹の鯉のぼりが舞う、
のどかでローカル色濃い手づくりイベント。
子どもたちの健康と成長祈願の、こどもの日にちなんだお祭り。
兄貴は昨年の3月14日、生後2か月半で我が家にやってきて、
まだ仔犬で弱々しかったこともあって、
昨年の5月5日には、このイベントに連れて行ったんだよね。
昨年の記事
【沖縄のイベント】国頭村奥の「奥ヤンバル鯉のぼり祭り」に行きました!
「奥ヤンバル鯉のぼり祭り」は今日5日で終わりだけど、
今年はとてもじゃないけど、兄貴は危なっかしくて
連れて行くことは出来ない。
昨年は愛玩系の「可愛いでちゅね~」みたいな
家族犬を連れて来る来場者も多かったので、
もし兄貴を連れて行って、現地で何かしでかしたら、NEWSになっちゃう。
犯行内容によっては兄貴は死罪だってあり得るのだから、
とても兄貴を連れていくことは出来ない。
まあ、兄貴にしても「鯉のぼり」なんか見たくはないと思うけどね。
兄貴にとっては、囲いの中にイノシシを放し、
「FREE HUNTING」みたいなイベントがあれば最高なんだろうけどさ。
「こどもの日」は「端午の節句」ともいって、男児のお祝いだけど
もともとは中国から入ってきた「厄払い」の行事。
中国では、旧暦5月は流行り病で亡くなる人が多かったり、
病害虫が農産物をあらすとかで、物忌みの月といわれ、
同じ数字が続く5月5日は「縁起が悪い日」とされ、
外出を控えたり、身を清めたり、
「菖蒲の葉の強い香りが、邪気を払う」
とされていたことで、菖蒲を門にさしたり、
菖蒲を漬けたお酒を飲んでの厄払いをしていたらしい。
その風習が日本に伝わり、
鎌倉時代になると宮廷の端午の行事は衰え、やがて衰退。
一方で武家社会では、
菖蒲を「尚武」、つまり「武を尚(たっと)ぶ」と解し、
武道・武勇を重んじる意味あいで幕府の祝日と定めている。
また、庶民にも菖蒲湯、菖蒲酒、菖蒲枕など、
菖蒲に関する風習が盛んになった。
この菖蒲は、華やかな花を咲かせる花菖蒲ではなく
葉が長くとがって剣先に見え、香りが高いサトイモ科の植物で、
花菖蒲は江戸時代にノバナショウブを品種改良してつくったアヤメ科の植物。
なので、現代では昔の菖蒲は花屋さんではまず見ることが出来ない。
ともかく、日本では鎌倉時代に
「端午の節句は、男児が誕生したら菖蒲で飾りつけをして成長を祝う行事」
として確立し、
「端午の節句=菖蒲の節句」
と辞典にも書かれてある。
奈良・平安時代になると、端午の節句は、
「春はあけぼの」で始まる、清少納言の「枕草子」(第36段)には
「節(せち)は五月にしく月はなし。
菖蒲(しょうぶ)、蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし」
「節供といえば、五月にまさる月はない。
菖蒲やヨモギなどが揃って薫(かお)るのは、とても情緒がある」
と記されているように、
宮廷ではこの日、軒に菖蒲やヨモギを挿し、
臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり、
菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を柱に下げたりした。
また、災いをもたらす悪鬼を退治する厄払いの意味で、
騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)などの勇壮なイベントも行われた。
一般庶民も軒に菖蒲を挿し、子供たちが小弓を引いたり、
印地(いんじ)と呼ばれた石を投げ合う遊びが行われた。
この「印地」は江戸初期まで続き、危険なため禁止。
その後、「菖蒲切り」というチャンバラごっことか
「菖蒲打ち」という菖蒲の束で地面を叩き、音の大きさを競う遊び
などに変化。
もともとの伝統的な姿を残す行事もあれば、
時代とともに変わる行事があるのもある。
でも、行事は一度途切れると、復活が難しいよね。
今のベッキーみたいなもの。
江戸時代になると、端午の節句は
「徳川幕府の重要な日」
になり、江戸城で将軍のお祝いをする日になった。
将軍に男児が生まれると、5月5日に跡継ぎの男児のお祝いもするようになり、
その時に「のぼり」を立ててお祝いをした。
でも、この時点ではまだ「鯉のぼり」ではない。
将軍に男児が生まれると、
のぼりを上げることが武家の作法として全国に広まり、
男児を祝い、それが庶民に広まった。
庶民は、中国で言い伝えられていた「立身出世」から、
「鯉の滝登り」をイメージ、
のぼりに鯉を描き端午の節句を祝い始めた。
これが「鯉のぼり」の最初らしい。
「鯉が滝を登り、竜になって天に上った」
という中国の登竜門の故事にちなんで、
「子どもに立派になってほしい」
「健康で元気に成長してほしい」
という願いが確立して、
それが現代に引き継がれている。
なので端午の節句の「鯉のぼり」は、
中国からの伝統風習ではなくて、
江戸時代に庶民が創り出したものなんだね。
「端午(たんご)」は、
「月の端(はじめ)の午(うま)の日」
という意味で、
毎月初めの午の日が「端午」というのだから、
5月とか5日とかの意味は、もともとない。
古代中国「漢」の時代では、時や月は12進法で、1日を12に分割し、
「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
と設定した。
当時の字が読めない農民に理解しやすいようにと、
身近な動物でそれぞれを示すようにしたのだとか。
十二支が奈良時代に中国から導入されると、
「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」
と読まれ、
動物は中国が決めた通りそのまま、
「ねずみ・牛・虎・うさぎ・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・いのしし」
が当てられた。
この中で、竜だけは想像上の動物で、
残りの11種はすべて陸上の身近な動物というのだけど、
なぜか猫はいない。
漢字は、もともと象形文字を変化させたものだから、
例えば、牛は頭部を正面から見た文字で、
4画目の縦線の上に突き出た部分は角のはず。
馬は全体を横から見た象形文字とされる。
牛も馬も古来から農耕に使われ、大きさも同じような感じだけど、
牛には角があり、馬にはない。
なので、牛の角を取った形が「午(馬)」?
「午」を漢和字典で調べると、陰暦(旧暦)5月には、
北斗七星の柄に当たる部分が午の方位(南)を指すので、
5月を「午」に当て、5月5日の節句を「端午の節句」、
略して「午節」という。
十二進法では「午」は7番目に登場する。
7番目は前半が終わり後半が始まる最初の位置にあり、
前後の交差する数のことを「午」というらしく、
現代の十進法で、前半と後半との交差する数は「五」にあたる。
漢和字典はなんか判りにくい。
広辞苑の「端午・端五」の項では、
「端」は初めの意。
「端午」は中国で月の初めの午の日。
のち「午」は「五」と音通などにより5月5日になり、五節句の一つ。
と説明されていて、漢和辞典のような北斗七星の話は書かれていない。
広辞苑も、なんだかすっきり理解は出来ないよね。
明治より前の時代は、十二支は時刻の表示にも用いられ、
十二支の最初の「子(ね)」、
つまり子の刻(真夜中の0時)から一日が始まり、
その後2時間ごとに「丑(うし)」、「寅(とら)」、
「卯(う)」、「辰(たつ)」、「巳(み)」と刻んでいくと
ちょうど昼の12時が「午」の刻の中心にあたり、
ここから「正午」という言葉がきているのだと。
お昼の12時は正に「午の刻」で「正午」、
それより前を「午前」、後を「午後」というのだと。
なので、0時の「子の刻」から「午の刻」までを「午前」、
「午の刻」から翌日の始まり「子の刻」までを「午後」となっている。
ちなみに、夜の0時は正に「子の刻」で、
江戸時代には「正子(しょうし)」といったらしいけど
、現代では死語となり、
「午前0時」が正式の表示法となった。
時代劇の怪談では、幽霊の出る時間は「丑(うし)三つ時(どき)」。
「丑の刻」は「1時~3時」で、
その2時間を4等分、つまり30分ずつに分けたのが
・丑一刻=丑一つ時=1時~1時30分
・丑二刻=丑二つ時=1時30分~2時
・丑三刻=丑三つ時=2時~2時30分
・丑四刻=丑四つ時=2時30分~3時
ということで、
「草木も黙る丑三つ時」
は、「午前2時から2時30分」だけど、
中心になるのが「丑の正刻」で、午前2時。
なので、「丑三つ時」は「午前2時」ということになるらしい。
「丑の刻」は死後の世界である常世へつながる時刻とされ、
呪術が執り行われるオカルトTIMEでもあったらしいけど、
「子の刻」って「0時~2時」じゃなくて、「23時~1時」なんだと。
このへんが判りにくいね。
昨年の「こどもの日」の頃の兄貴と、今の兄貴を比べると、
もう別犬のように粗暴になっている。
人間でいえば、少年院や鑑別所に出入りするようなグレ系、
「ケンカ上等」みたいな犬社会の暴走族の総長みたい。
ただ、木枯らし紋次郎や子連れ狼のように、
兄貴は単独行動で群れないだけ。
吉川英二の宮本武蔵では、武蔵が江戸に出て来て、
「御魂磨処(おんたましいとぎどころ)」
に刀を預けた際に、佐々木小次郎の長刀を目にする。
要するに、剣術が秀でるだけでは人殺しと同じで、
「剣の道は人の心も磨ぎ澄ませないといけない」
という、大事な場面なんだけど、
兄貴は、どうも戦いに勝つだけを目指しているようにしか見えない。
兄貴は
「夜露死苦(よろしく)」
とか
「愛羅武勇(アイ・ラブ・ユー)」
とか暴走族語が似合いそうで、なんだかイヤだな。