
喜納昌吉&チャンプルーズのデビュー曲
「ハイサイおじさん」
は、
最近では、高校野球の甲子園球場での沖縄代表チームで、
特に攻撃のチャンスの場面で多用される楽曲だけど、
私は1977年(昭和52年)、成人になり名古屋に住み始めた頃に、
深夜放送のパックインミュージックで初めて聴いて
「これが沖縄音楽なのか!」
と、衝撃的な印象を受けた。
私は、中学生からこの番組のリスナーで、当時から3つのペンネームで
リクエストハガキを出しまくっていたので、
「ハイサイおじさん」も、何度もリクエストした記憶がある。
「ハイサイおじさん」の歌詞には「台湾ハゲ」が出てくる。
私は、この歌詞で「台湾ハゲ」というのがあることを初めて知った。
以下、三番の歌詞
「ハイサイおじさん ハイサイおじさん
おじさんカンパチ まぎさよい
みーみじカンパチ 台湾はぎ
ありあり童(わらばー) いぇー童(わらばー)
頭(ちぶる)んはぎとし 出来やーど
我(わ)ったー元祖(ぐゎんす)ん むる出来やー
あんせおじさん 我(わ)んにん整形しみやーい
あまくまカンパチ 植(い)いゆがや」
この曲の歌詞は、子供と酒飲みのおじさんとの
コミカルなやりとりで構成されている。以下、和訳。
(子供)
「こんにちはおじさん、こんにちはおじさん
おじさんの頭のハゲは大きいね、
それミミズのようなハゲだけど、台湾ハゲって言うんだろ」
(おじさん)
「おいおい小僧、やい小僧
頭がハゲているやつは頭がいいんだぞ
うちの先祖もみんな頭が良かったぞ」
(子供)
「それならおじさん、ボクも整形して
あちこちにハゲをつくってみようかな」
・かんぱち=ハゲ
・まぎさ=大きい
・みみじ=ミミズ
・ぐわんす=ご先祖
・ん=も(強調)
・ういーゆがやー=植えようかね?
「がやー」は、語尾に疑問詞(?)がなくとも疑問の終助詞
この曲は、沖縄では著名な喜納昌吉(きなしょうきち)さんが、
コザ市(現・沖縄市)在住の中学時代に作曲したデビュー曲、
といわれている。
ウチナーンチュに喜納さんについて聞くと、
民主党全盛期の頃、沖縄代表の参議院議員になったり、
民主党沖縄県連代表で県知事選に立候補しようとして
民主党から除名されたとか、いろんなことがあって、
喜納さんは、
「うれー、いふーなちゅやっさー」
(それは、変な人だよ)
という人が多く、
また喜納さんは
「でーじ酒飲んでいっちゃーさぁー」
(たくさんお酒飲んだ酔っ払いだよ)
みたいなテーゲーな印象もかもし出していて、
「ハイサイおじさん」にしても、いつ作詞作曲したのか、
しばらくは「琉球政府立普天間高校当時」と本人が言っていたのに、
最近では「島袋中学時代」に変わっている。
でも、いつ作詞作曲したかなんて、
曲のイメージを何度も修正して創り上げたんだろうから、
具体的にいつ完成したなんて不明だっていいと思う。
喜納さんは1948年(昭和23年)、11人兄弟の四男として生まれた。
父は琉球民謡の第一人者喜納昌永。
終戦から3年、戦争の傷跡が生々しく残る、
沖縄中が貧困にあえいでいた頃に生まれている。
沖縄戦では、沖縄住民約9万4千人、
当時の沖縄県の人口比率からすると、
「約5人に1人が死亡した」
といわれている。
米軍は読谷(よみたん)あたりから上陸して、
東西ラインで本島を分割し、
日本軍の主力部隊が待ち構える南部に進撃したので、
西原町や糸満市など、住民が全滅した部落もあり、
激戦だった南部だけでみると、
「人口の4人に1人が死亡」
と言っても過言ではないはず。
沖縄戦で生存した人たちは、軍人と住民とに分けられ、
それぞれが本島内のあちこちの収容所に送られた。
喜納さんは、そういう戦争経験者の悲惨な声を直接聞きながら、
同時に、植民地として我が物顔で統治、支配する米軍と
虐(しいた)げられる住民のあつれきと不満、
また、ベトナム戦争や朝鮮戦争では沖縄の米軍基地から出撃するので、
前線に行けば生きて帰れる保証のない米兵たちは、
その恐怖心を忘れるためにドラッグにおぼれ、
酒、ギャンブル、女にのめり込み、
バイオレンス(暴力)やデカダンス(虚無)などに陥り、
そういった沖縄人や米兵の、
あらゆる感情がどろどろと渦巻く歓楽街コザで
喜納さんは青少年期を過ごしていた。
なので、喜納さんは「反戦」というよりバリバリの「非戦」主義者。
風貌や言動からすると「テーゲー」にしか見えないけど、
「人は見かけで判断しちゃいけない」
という典型でもある。
とやかく言われるけど、本当は立派な人なんだよ。
「反戦」と「非戦」って、同じ意味に思えるけど、中身はまったく違う。
「反=反する」
「非=あらず」
なので、
「反戦=戦争に反対」
「非戦=争ではない方法を選択すること」
つまり、「非戦」は、
「戦争および武力による威嚇や武力の行使を否認し、
戦争ではない手段、方法によって問題を解決し、
目的を達成しよう」
という主張で、
喜納さんは、若い頃からずっと一貫して「非戦」を唱えている。
「朝鮮戦争やベトナム戦争では、
沖縄は戦争の砦として沖縄の基地を使われたけど、
国内の基地縮小・撤去に向けた大きな流れの中では、
沖縄が非戦反戦の砦としてあり続けるべきだ」
ということを一貫して主張している。
1967年(昭和42年)、18歳の喜納さんが国際大学(現沖縄国際大学)に入学したが、
当時は学園闘争の最盛期で学内は大混乱。
喜納さんは秋の学園祭で音楽を演奏しようと、
友人や兄弟だちと「チャンプルーズ」を結成した。
「チャンプルーズ」というバンド名は、
メンバーが兄弟友人のMIXであることと、
民謡やロヅクやフォーク、あるいは幅広いな世代に受け入れられるような
ゴチャ混ぜの魅力を目指そうとして決めたらしい。
もちろん、秋の学園祭では「ハイサイおじさん」を演奏し、
観客から熱狂的な支持を受けたという。
喜納さんの最大のヒット曲は、「花~すべての人の心に花を~」。
「河は流れてどこまで行くの
人も流れてどこまで行くの
そんな流れがつく頃には
花として花として 咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か
花を咲かそうよ
…」
という有名な歌詞。
世界60か国以上で、3500万枚も売り上げているのだという。
喜納さんの著書「すべての武器を楽器に(冒険社)」には、
この歌詞に込められた意味が、以下のように書かれている。
「聴く人の数だけ「花」がある。
そしてまた、歌う人の数だけ「花」がある 。
心の花でもいい。魂の花でもいい。
あらゆる 生命の花が咲くようにとの思いを込めて、
それ以来、ずっと私は歌ってきた。
そして今、私たち人間は新しい時代を迎えなければならない。
人間の心によって真の平和を築く。
そういう時代を迎えなければならない。
人類が、利権や、争いごとや、それらにまつわる不安から解き放たれ、
ひとつに和合したときにこそ、新しい時代はやってくる。
「花」は一つの触発だと思う。
あまりにも経済中心の 文明に人が流れ、保守的な意識に向かう中で、
もう一度「心とは何か?」という単純なメッセージを、
人々に投げかけているのだと思う。
そのメッセージを感じてくれた人々が、それぞれの表現で、
再び私に語りかけてくれたとき、そこにまた素晴らしい花が咲く。
21世紀のルネッサンスを目指し、
平和に満ちた文化の創造を担う人々のひとりひとりが、
私にとっては 素晴らしい花になる。」
現世を憂い、平和を願う名曲だよね。
「花~すべての人の心に花を~」が、
2006年、文化庁により日本の歌百選に選定されたことで、
喜納さんは共同通信社のインタビューで
「ハイサイおじさん」の歌詞の背景について
次のように答えている。
「女の子が毛布に包まれて横たわっていた。
父親が『なぜこの子の足は冷たいの』と毛布を取ったら首が無い。
父親は魂を落としたような顔で、しばらく言葉を失った。
母親が自分の娘をまな板に乗せて斧で首を切り落としたのである。
さらに母親はその頭を釜で煮て、「自分の娘を食べて何が悪い!」と叫んだ。」
「戦後、家を失ったり精神的におかしくなった女性がたくさんいた。
事件の家の父親もそんな女性を家に連れ込むから夫婦げんかばかり。
その後、その母親は自殺、父親は酒に溺れていった。」
「顔を出すと僕に向かって古い民謡を歌う。
ハイサイ(こんにちは)と声を掛けて僕も酒をあげる。
それを繰り返しているうちに『歌を作ってあげようね』と急に思った。
ダンダダンダダンとリズムが生まれてきて。」
「歌詞は辛い過去を背負った社会的弱者の男性のことをおおらかに歌ったもの。」
喜納さんが子供の頃、近所のおじさんから聞いた悲惨な話が基になっていたんだね。
あまりにも凄惨な地上戦を経験した沖縄では、多くの人が死に、
また生き残った人のうちには、限界を超えた恐怖を経験し、
気をおかしく人も多かったという。
子供とおじさんの、面白おかしい会話の歌詞で、
アップテンポでノリのいいリズムの楽しい曲なんだけど、
この背景には、沖縄の悲しい歴史と、平和への思いが込められている。
曲が陽気な分、余計、悲しさが際立ってくるような感じで、
高校野球の甲子園球場での沖縄代表チームが、
特に攻撃のチャンスの場面で多用され、指笛が鳴らされ熱狂し、
相手チームのピッチャーには強烈な威圧感やプレッシャーが襲いかかり、
「これでもか」と、沖縄魂を見せつける場面が多い。
単に応援の凄さやチーム力だけではなく、
沖縄戦で亡くなった人たちも応援しているような感じがする。
兄貴は野犬との激闘で台湾ハゲになったけど、
辛く悲しい過去を背負った「ハイサイおじさん」の「台湾ハゲ」と比べると、
兄貴の怪我なんて
「単なるガキのケンカのすり傷」
で、大したことじゃないんだよね。