ハイサイ、RIN(凛)です
毎年11月第2土曜から日曜、
つまり今年は昨日11月7日(土曜)と今日8日(日曜)は、
沖縄県名護市を中心に、沖縄本島北部地域で2日間にわたって
「ツール・ド・おきなわ(Tour de Okinawa)」
という自転車ロードレース大会が開催された。
というか、もうとっくに終わってる。
もっと早く出すべきだったね。
この大会は1989年(平成元年)から開催されているから、
かれこれもう26年目になる。
お遊び的なサイクリングイベントもあるんだろうけど、
純粋な自転車競技の本格的レース種目も多く、
最上級クラスの「チャンピオンレース」は、
UCIアジアツアーに組みこまれていて、
参加者の国籍も香港、台湾、韓国、中国、カナダ、
イタリア、アメリカ、オーストラリアなど多国籍にわたる、
立派な国際ロードレース大会。
なので、2ヶ月くらい前から、レースのコースになる国道58号線や
国頭村を横断する山越えの県道2号線、太平洋沿岸の県道70号線など、
道路沿いの伐採や草刈り、側溝の掃除などが行われ、
ふだんの道路沿いは雑草が繁茂して、
側溝は落ち葉や倒木、落石などでふさがれて、
雨水も流れないようなありさまだから、
この体裁掃除が行われると、
「ツール・ド・おきなわ」が近いことを知らされる。
種目は、大まかに分けると、以下の3種類。
・国際ロードレース大会
・市民レース部門
・サイクリング部門
市民レース部門は、10km~210kmまでいくつもあり、
サイクリング部門には、沖縄本島一周サイクリング323kmなどもあるらしい。
「210km」というのは、正月恒例の
東京箱根間往復大学駅伝競走 (箱根駅伝)が217.1km、
「323km」は、東京~米原間の直線距離307km、
東京~仙台の直線距離306kmに相当する。
居酒屋でお酒を飲んだ勢いで
「よ~し、いっちょう出てみるか!」
で通じるような甘っちょろいもんじゃない。
市民レース部門最長の210kmクラスは
「ホビーレーサーの甲子園」
といわれているようで
全国から名うてのレーサーたちの、憧れの自転車レースでもあるらしい。
国際ロードレース大会と市民の部210kmは、山原(やんばる)の山越えがある。
国頭郡国頭村字与那と字安田を結ぶ県道2号線は、
沖縄本島最北部の国頭村内で、
西海岸(東シナ海)と東海岸(太平洋)を結ぶ横断道路。
1953年(昭和28年)に琉球政府道与那安田線として指定され、
1965年(昭和40年)に政府道2号線となり、
1972年(昭和47年)の沖縄本土復帰と同時にそのまま県道2号線となった。
なので、復帰前から横断道路は存在していたものの、
山林の多い山原(やんばる)という希少生物が多く棲む秘境地帯を通るため、
全線舗装したのは1980年代初頭らしいから、今からまだ35年も経っていない。
1980年の邦楽ヒット曲というと、
・青い珊瑚礁 松田聖子
・異邦人 久保田早紀
・恋人よ 五輪真弓
・ハッとして!Good 田原俊彦
・昴(すばる) 谷村新司
・ランナウェイ シャネルズ
・大都会 クリスタルキング
・別れても好きな人 ロスインディオス&シルヴィア
こういった歌がヒットしている時、
この県道2号線は全面舗装されず、一部が砂利道、他は赤土。
地元では県道ではなく「険道」といわれていたようだ。
戦後、琉球政府道与那安田線を建設する時は、山を伐採し、木を運び、
重機で道を造りながら土砂を運ぶ、という作業だったという。
これを当時手伝ったのが私の住まいの大家さん。
また、琉球政府道与那安田線が建設される前に、
安田(あだ)に住んでいた方は、当時青年で、
集落の健康な青年男子の仕事として、安田集落から秘境の山林を歩いて、
役場や郵便局のある辺土名集落まで
集落宛ての郵便物を日帰りで取りに行く役割が週に1度あったという。
明け方に出発し、昼までに辺土名に着ければ、早ければ夕方帰れたらしい。
遅い人は、夕やみで道に迷ったりして提灯(ちょうちん)を灯し
夜や翌朝戻ることもあったという。
当時集落一番の健脚だった方は、私の知人。といっても今は古老だけど。
なので、この山越えの県道2号線は、
沖縄戦を生き抜いた多くの方々の、いろいろな思いが入った道で、
「ここに道路を造るのって相当難儀だっただろうな」
と、私は県道2号線を通るたびに感慨深くなる。
この急坂でカーブの多い横断道路は車幅が約8m、
ここに集団で自転車が通るので、落車事故も多発するのは必然。
我が家から林道を下りて県道70号線に出ると、
大会を手伝うボランティアが出ている。
ここで聞いた話では、国際ロードレース大会と市民の部210kmは
「山越えが厳しい横断道路は接触事故を各選手が注意するのでスローになり、
下りの直線が多い県道70号線や、ゴールがほど近く平坦な国道58号線で
スプリント勝負になっている」
と言われていたけど、山岳横断道路での落車事故はけっこう多い。
なぜ知っているかというと、今の住まいのリフォーム中は
本島南部の南風原町から日帰りで週に3回、延べ数十回通っていたけど、
6年前の「ツール・ド・おきなわ」当日に、リフォームに出発してしまい、
交通規制の敷かれた名護市で大渋滞に巻き込まれ、
その後の58号線を北上するのもノロノロ、
国頭村に何とか入ると、今度は市民の部210kmの最後尾についたことがあった。
明け方に出発したのに、リフォーム宅に到着したのは15時を過ぎていた。
もう歩くより遅いのに「何とか根性で頑張っている」という感じの人たちが最後尾。
その直後に「自転車回収車」という大型車両と、
棄権者を乗せるバスが付いている。
横断道路の沿線には、棄権者や負傷者が座ったり立ったりして、
回収車を今か今かと待っている。
それがけっこういるんだよね。
回収車両がいちいち停まるので、後続の一般車両はイライラするばかり。
前輪が外れ、チェーンが切れ、中破した自転車が路肩に並べてあり、
素人ながら、安っぽい自転車では山越えは、とても通用しないことが判る。
ママチャリでは山麓で終わり、というより、
名護市から大宜味村に入った辺りでリタイヤするはず。
昨年の「小学生10km」では
「1位 山城侑大(チームゴーヤ)14分28秒」
と記録に出ていた。
これを時速に換算すると、
「41.5km/h」
となる。
小学生の部で優勝するにも、相当な実力が必要で、
専門のコーチや高級な自転車も必要になりそうだね。
同様に
「レディース50km」
では、
「1位 松井優佳(大阪府自転車競技連盟) 1時間26分19秒」
この時速は34.8km/h。
東京駅を基点とした直線距離では、千葉県我孫子市や
埼玉県桶川市あたりに相当するから、
これを自転車で1時間で到達するなんて、考えられんさ。
「ツール・ド・おきなわ」の交通規制や、ふだん2号線を通る時、
RIN(凛)君との県道70号線の散歩…、
「自転車専用道路があったらいいのにな」
とか
「ノロい車を追い越せる幅広いところが何か所かあればいいのにね」
とか
「遊歩道があればいいのに」
と、いつも思う。
沖縄が本土復帰後、国が沖縄に投じた振興予算は総額10兆円にも上り、
9割以上が道路、建物など、いわゆる ハコ造りに使われてきた。
なので、いつまで経っても産業が育たない。
山原(やんばる)の中には要らない林道が迷路のように延び、
すべて舗装されている。
県はまだ林道を造る計画をしていたから呆れてしまう。
必要なものに投資し、不必要なものには使わない。
当たり前のことだけど、行政は予算の分捕り合いしか考えない。
まともな指導者がいれば、沖縄にはとうに鉄道が通っていたかもしれないね。

毎年11月第2土曜から日曜、
つまり今年は昨日11月7日(土曜)と今日8日(日曜)は、
沖縄県名護市を中心に、沖縄本島北部地域で2日間にわたって
「ツール・ド・おきなわ(Tour de Okinawa)」
という自転車ロードレース大会が開催された。
というか、もうとっくに終わってる。
もっと早く出すべきだったね。
この大会は1989年(平成元年)から開催されているから、
かれこれもう26年目になる。
お遊び的なサイクリングイベントもあるんだろうけど、
純粋な自転車競技の本格的レース種目も多く、
最上級クラスの「チャンピオンレース」は、
UCIアジアツアーに組みこまれていて、
参加者の国籍も香港、台湾、韓国、中国、カナダ、
イタリア、アメリカ、オーストラリアなど多国籍にわたる、
立派な国際ロードレース大会。
なので、2ヶ月くらい前から、レースのコースになる国道58号線や
国頭村を横断する山越えの県道2号線、太平洋沿岸の県道70号線など、
道路沿いの伐採や草刈り、側溝の掃除などが行われ、
ふだんの道路沿いは雑草が繁茂して、
側溝は落ち葉や倒木、落石などでふさがれて、
雨水も流れないようなありさまだから、
この体裁掃除が行われると、
「ツール・ド・おきなわ」が近いことを知らされる。
種目は、大まかに分けると、以下の3種類。
・国際ロードレース大会
・市民レース部門
・サイクリング部門
市民レース部門は、10km~210kmまでいくつもあり、
サイクリング部門には、沖縄本島一周サイクリング323kmなどもあるらしい。
「210km」というのは、正月恒例の
東京箱根間往復大学駅伝競走 (箱根駅伝)が217.1km、
「323km」は、東京~米原間の直線距離307km、
東京~仙台の直線距離306kmに相当する。
居酒屋でお酒を飲んだ勢いで
「よ~し、いっちょう出てみるか!」
で通じるような甘っちょろいもんじゃない。
市民レース部門最長の210kmクラスは
「ホビーレーサーの甲子園」
といわれているようで
全国から名うてのレーサーたちの、憧れの自転車レースでもあるらしい。
国際ロードレース大会と市民の部210kmは、山原(やんばる)の山越えがある。
国頭郡国頭村字与那と字安田を結ぶ県道2号線は、
沖縄本島最北部の国頭村内で、
西海岸(東シナ海)と東海岸(太平洋)を結ぶ横断道路。
1953年(昭和28年)に琉球政府道与那安田線として指定され、
1965年(昭和40年)に政府道2号線となり、
1972年(昭和47年)の沖縄本土復帰と同時にそのまま県道2号線となった。
なので、復帰前から横断道路は存在していたものの、
山林の多い山原(やんばる)という希少生物が多く棲む秘境地帯を通るため、
全線舗装したのは1980年代初頭らしいから、今からまだ35年も経っていない。
1980年の邦楽ヒット曲というと、
・青い珊瑚礁 松田聖子
・異邦人 久保田早紀
・恋人よ 五輪真弓
・ハッとして!Good 田原俊彦
・昴(すばる) 谷村新司
・ランナウェイ シャネルズ
・大都会 クリスタルキング
・別れても好きな人 ロスインディオス&シルヴィア
こういった歌がヒットしている時、
この県道2号線は全面舗装されず、一部が砂利道、他は赤土。
地元では県道ではなく「険道」といわれていたようだ。
戦後、琉球政府道与那安田線を建設する時は、山を伐採し、木を運び、
重機で道を造りながら土砂を運ぶ、という作業だったという。
これを当時手伝ったのが私の住まいの大家さん。
また、琉球政府道与那安田線が建設される前に、
安田(あだ)に住んでいた方は、当時青年で、
集落の健康な青年男子の仕事として、安田集落から秘境の山林を歩いて、
役場や郵便局のある辺土名集落まで
集落宛ての郵便物を日帰りで取りに行く役割が週に1度あったという。
明け方に出発し、昼までに辺土名に着ければ、早ければ夕方帰れたらしい。
遅い人は、夕やみで道に迷ったりして提灯(ちょうちん)を灯し
夜や翌朝戻ることもあったという。
当時集落一番の健脚だった方は、私の知人。といっても今は古老だけど。
なので、この山越えの県道2号線は、
沖縄戦を生き抜いた多くの方々の、いろいろな思いが入った道で、
「ここに道路を造るのって相当難儀だっただろうな」
と、私は県道2号線を通るたびに感慨深くなる。
この急坂でカーブの多い横断道路は車幅が約8m、
ここに集団で自転車が通るので、落車事故も多発するのは必然。
我が家から林道を下りて県道70号線に出ると、
大会を手伝うボランティアが出ている。
ここで聞いた話では、国際ロードレース大会と市民の部210kmは
「山越えが厳しい横断道路は接触事故を各選手が注意するのでスローになり、
下りの直線が多い県道70号線や、ゴールがほど近く平坦な国道58号線で
スプリント勝負になっている」
と言われていたけど、山岳横断道路での落車事故はけっこう多い。
なぜ知っているかというと、今の住まいのリフォーム中は
本島南部の南風原町から日帰りで週に3回、延べ数十回通っていたけど、
6年前の「ツール・ド・おきなわ」当日に、リフォームに出発してしまい、
交通規制の敷かれた名護市で大渋滞に巻き込まれ、
その後の58号線を北上するのもノロノロ、
国頭村に何とか入ると、今度は市民の部210kmの最後尾についたことがあった。
明け方に出発したのに、リフォーム宅に到着したのは15時を過ぎていた。
もう歩くより遅いのに「何とか根性で頑張っている」という感じの人たちが最後尾。
その直後に「自転車回収車」という大型車両と、
棄権者を乗せるバスが付いている。
横断道路の沿線には、棄権者や負傷者が座ったり立ったりして、
回収車を今か今かと待っている。
それがけっこういるんだよね。
回収車両がいちいち停まるので、後続の一般車両はイライラするばかり。
前輪が外れ、チェーンが切れ、中破した自転車が路肩に並べてあり、
素人ながら、安っぽい自転車では山越えは、とても通用しないことが判る。
ママチャリでは山麓で終わり、というより、
名護市から大宜味村に入った辺りでリタイヤするはず。
昨年の「小学生10km」では
「1位 山城侑大(チームゴーヤ)14分28秒」
と記録に出ていた。
これを時速に換算すると、
「41.5km/h」
となる。
小学生の部で優勝するにも、相当な実力が必要で、
専門のコーチや高級な自転車も必要になりそうだね。
同様に
「レディース50km」
では、
「1位 松井優佳(大阪府自転車競技連盟) 1時間26分19秒」
この時速は34.8km/h。
東京駅を基点とした直線距離では、千葉県我孫子市や
埼玉県桶川市あたりに相当するから、
これを自転車で1時間で到達するなんて、考えられんさ。
「ツール・ド・おきなわ」の交通規制や、ふだん2号線を通る時、
RIN(凛)君との県道70号線の散歩…、
「自転車専用道路があったらいいのにな」
とか
「ノロい車を追い越せる幅広いところが何か所かあればいいのにね」
とか
「遊歩道があればいいのに」
と、いつも思う。
沖縄が本土復帰後、国が沖縄に投じた振興予算は総額10兆円にも上り、
9割以上が道路、建物など、いわゆる ハコ造りに使われてきた。
なので、いつまで経っても産業が育たない。
山原(やんばる)の中には要らない林道が迷路のように延び、
すべて舗装されている。
県はまだ林道を造る計画をしていたから呆れてしまう。
必要なものに投資し、不必要なものには使わない。
当たり前のことだけど、行政は予算の分捕り合いしか考えない。
まともな指導者がいれば、沖縄にはとうに鉄道が通っていたかもしれないね。