ハイサイ、RIN(凛)です
「豊かな自然環境に恵まれている」
といえば聞こえはいいけど、正しい言い方は辺境地の不便な過疎。
ここでは、日中はいろいろな蝶が飛び回っている。
けど、蝶の撮影はなかなか難しい。
希望としては、翅を閉じた姿と、翅を大きく開いた姿を
図鑑の写真ばりに鮮明に撮りたい。
でも、ひらひら舞っている蝶の撮影は、私の撮影技量では困難だし、
蝶が花に留まっても、翅を開かない、あるいは閉じない。
私が近くに寄ると飛び立ってしまう。
また、デジカメを持っていない時に、大きなチャンスが訪れ、
デジカメを持っている時には、ロクな撮影が出来ない。
こういう時は、私は育ちが悪いせいか、どうしても自然に舌打ちしてしまう。
今日撮影したのは、「ツマベニチョウ」の雄。
完全に翅を開いた姿は撮影できなかったけど、これ以上はムリそうなのでアップした。
これは別名「幸せを呼ぶチョウ」といわれ、最も美しい種のひとつといわれている蝶。
アゲハチョウ上科シロチョウ科に分類され、シロチョウ科では世界最大級、
なので日本産シロチョウでは最大種。
翅を広げると10cm近くなる。
アゲハチョウが黒系だから、
白地で、外側がオレンジ色の「ツマベニチョウ」はひときわ目立つ。
雄は明るい場所の花、なのでハイビスカスの花によく来る。
ハイビスカスは赤い花なので、白地の「ツマベニチョウ」が留まると
TVの昆虫番組の映像みたいで、その美しさに見とれてしまう。
でも、これは雄の場合。
雌は別の蝶のように地味系で目立たない。
雌は明るい場所に飛来せず、なぜか薄暗い森林の中にいるので、
雌はなかなか撮影が出来ない。
「ツマベニチョウ」は沖縄では珍しくないけど、北限は宮崎県らしい。
また、翅や幼虫の体液には、イモガイと同じ猛毒の成分(神経毒)があるらしい。
カエルやトカゲ、アリなど天敵から身を守るために毒があるらしい。
「美しい花には毒がある」
みたいなものだね。
種田山頭火(たねださんとうか)の蝶の句に、
「てふてふうらからおもてへひらひら」
「ほんに小春のあたたかいてふてふ」
「てふてふちらちら風に乗つた来た」
というのがある。
種田山頭火は「昭和の芭蕉」といわれた俳人。
45歳から59歳で亡くなるまで禅僧として
九州、中国、四国地方に行乞(ぎょうこつ)の旅に出た。
旅のさなかに数多くの句を残しているので、
「昭和の芭蕉」といわれている。
季語や五・七・五という俳句の約束事を無視、
自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」で句を詠んだ俳人。
「分け入っても分け入っても青い山」
という句は、中学校か高校の国語の教科書に出ていたはず。
これは、
「道なき道を分け入って、どんどん進んでも青い山ははてしなく続いている」
という意味で、
「自分の人生の道、俳句の道も、いくら模索したところできりがない、
このはてしない青い山と一緒だ」
という山頭火の思い、、
さすらいの終わりのない旅、それに投影された山頭火の心の放浪がしのばれる。
山頭火は1882年(明治15年、鹿鳴館落成の前年)、
山口県の造り酒屋に生まれたが、父の女遊びが激しく、
これに苦しんだ母は山頭火が11歳の時に、自宅の井戸に投身自殺、
山頭火は、母の遺体が引き揚げられるのを見てしまい、これが一生の心の傷になる。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田大学に入学。
1903年(明治36年、22歳)神経症のために大学を中退して帰郷する。
1916年(大正5年)山頭火が35歳の時に家業の酒造業が破産し、父は家出、兄弟は離散。
山頭火は妻子を連れて妻の実家のある熊本に移り住み、文具店を営むも、
自身の苦悩から逃れることができず、家業は妻に任せ、
酒と俳句に埋没する日々を送り、
1920年(大正9年、39歳)妻子を熊本に残し、単身東京に出る。
その後妻から離婚届けが届き、弟の自殺の訃報を受ける。
1925年(大正14年、44歳)関東大震災に遭遇し、別れた妻の熊本宅に居候になる。
熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こす。
もちろん山頭火は自殺するつもりだったはず。
急停車した市電の中で転倒した乗客たちが怒って彼を取り囲む中、
現場に居合わせた新聞記者が彼を救い、禅寺(曹洞宗報恩寺)に預け、
翌年、45歳で山頭火は出家。
その後、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って西日本各地へと旅立つ。
行乞(ぎょうこつ、僧が食べ物の施しを受ける行)の旅の最初の地が宮崎、大分。
九州山地を進む山頭火が旅始めに詠んだ句が、
「分け入っても分け入っても青い山」
「風の向くまま 気の向くままよ」って答えてたフーテンの寅さんのように
世間や家族、自分も捨てて、自由を愛し、酒を愛し、
行脚(あんぎゃ)の旅を続け、俳句を作り続けた山頭火。
季語や字数など俳句の形式にこだわることなく、
ありのままの飾りけのない俳句を詠んだというのも、
何度も地獄をくぐり抜けて来た山頭火らしい。
「ついてくる犬よおまへも宿なしか」
この句だって、もし中高生が詠んだら、国語の先生に「ふざけるな」と叱られるはずだけど、
山頭火が詠むと、味があって「らしい」となる。
不思議だよね。

「豊かな自然環境に恵まれている」
といえば聞こえはいいけど、正しい言い方は辺境地の不便な過疎。
ここでは、日中はいろいろな蝶が飛び回っている。
けど、蝶の撮影はなかなか難しい。
希望としては、翅を閉じた姿と、翅を大きく開いた姿を
図鑑の写真ばりに鮮明に撮りたい。
でも、ひらひら舞っている蝶の撮影は、私の撮影技量では困難だし、
蝶が花に留まっても、翅を開かない、あるいは閉じない。
私が近くに寄ると飛び立ってしまう。
また、デジカメを持っていない時に、大きなチャンスが訪れ、
デジカメを持っている時には、ロクな撮影が出来ない。
こういう時は、私は育ちが悪いせいか、どうしても自然に舌打ちしてしまう。
今日撮影したのは、「ツマベニチョウ」の雄。
完全に翅を開いた姿は撮影できなかったけど、これ以上はムリそうなのでアップした。
これは別名「幸せを呼ぶチョウ」といわれ、最も美しい種のひとつといわれている蝶。
アゲハチョウ上科シロチョウ科に分類され、シロチョウ科では世界最大級、
なので日本産シロチョウでは最大種。
翅を広げると10cm近くなる。
アゲハチョウが黒系だから、
白地で、外側がオレンジ色の「ツマベニチョウ」はひときわ目立つ。
雄は明るい場所の花、なのでハイビスカスの花によく来る。
ハイビスカスは赤い花なので、白地の「ツマベニチョウ」が留まると
TVの昆虫番組の映像みたいで、その美しさに見とれてしまう。
でも、これは雄の場合。
雌は別の蝶のように地味系で目立たない。
雌は明るい場所に飛来せず、なぜか薄暗い森林の中にいるので、
雌はなかなか撮影が出来ない。
「ツマベニチョウ」は沖縄では珍しくないけど、北限は宮崎県らしい。
また、翅や幼虫の体液には、イモガイと同じ猛毒の成分(神経毒)があるらしい。
カエルやトカゲ、アリなど天敵から身を守るために毒があるらしい。
「美しい花には毒がある」
みたいなものだね。
種田山頭火(たねださんとうか)の蝶の句に、
「てふてふうらからおもてへひらひら」
「ほんに小春のあたたかいてふてふ」
「てふてふちらちら風に乗つた来た」
というのがある。
種田山頭火は「昭和の芭蕉」といわれた俳人。
45歳から59歳で亡くなるまで禅僧として
九州、中国、四国地方に行乞(ぎょうこつ)の旅に出た。
旅のさなかに数多くの句を残しているので、
「昭和の芭蕉」といわれている。
季語や五・七・五という俳句の約束事を無視、
自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」で句を詠んだ俳人。
「分け入っても分け入っても青い山」
という句は、中学校か高校の国語の教科書に出ていたはず。
これは、
「道なき道を分け入って、どんどん進んでも青い山ははてしなく続いている」
という意味で、
「自分の人生の道、俳句の道も、いくら模索したところできりがない、
このはてしない青い山と一緒だ」
という山頭火の思い、、
さすらいの終わりのない旅、それに投影された山頭火の心の放浪がしのばれる。
山頭火は1882年(明治15年、鹿鳴館落成の前年)、
山口県の造り酒屋に生まれたが、父の女遊びが激しく、
これに苦しんだ母は山頭火が11歳の時に、自宅の井戸に投身自殺、
山頭火は、母の遺体が引き揚げられるのを見てしまい、これが一生の心の傷になる。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田大学に入学。
1903年(明治36年、22歳)神経症のために大学を中退して帰郷する。
1916年(大正5年)山頭火が35歳の時に家業の酒造業が破産し、父は家出、兄弟は離散。
山頭火は妻子を連れて妻の実家のある熊本に移り住み、文具店を営むも、
自身の苦悩から逃れることができず、家業は妻に任せ、
酒と俳句に埋没する日々を送り、
1920年(大正9年、39歳)妻子を熊本に残し、単身東京に出る。
その後妻から離婚届けが届き、弟の自殺の訃報を受ける。
1925年(大正14年、44歳)関東大震災に遭遇し、別れた妻の熊本宅に居候になる。
熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こす。
もちろん山頭火は自殺するつもりだったはず。
急停車した市電の中で転倒した乗客たちが怒って彼を取り囲む中、
現場に居合わせた新聞記者が彼を救い、禅寺(曹洞宗報恩寺)に預け、
翌年、45歳で山頭火は出家。
その後、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って西日本各地へと旅立つ。
行乞(ぎょうこつ、僧が食べ物の施しを受ける行)の旅の最初の地が宮崎、大分。
九州山地を進む山頭火が旅始めに詠んだ句が、
「分け入っても分け入っても青い山」
「風の向くまま 気の向くままよ」って答えてたフーテンの寅さんのように
世間や家族、自分も捨てて、自由を愛し、酒を愛し、
行脚(あんぎゃ)の旅を続け、俳句を作り続けた山頭火。
季語や字数など俳句の形式にこだわることなく、
ありのままの飾りけのない俳句を詠んだというのも、
何度も地獄をくぐり抜けて来た山頭火らしい。
「ついてくる犬よおまへも宿なしか」
この句だって、もし中高生が詠んだら、国語の先生に「ふざけるな」と叱られるはずだけど、
山頭火が詠むと、味があって「らしい」となる。
不思議だよね。