ハイサイ、RIN(凛)です
沖縄には春夏秋冬の「秋」がない3シーズンなんだけど、
ここ数日、めっきり涼しくなってきた。
日中気温は30度を少し割り込み、夜は21度くらいに冷え込む。
山原(やんばる)は、本島南部に比べると、
山岳地帯ということもあって気温が2度は低い。
けど、今くらいが過ごしやすいね。
春の「うりずん」みたい。
沖縄で最も過ごしやすいのは、「うりずん」と10月だよ。
「うりずん」というのは、ひと言でいえば「春」とか「初夏」なんだけど、
「潤い初め(うるおいぞめ)」を語源としたおもろ語(古代琉球語)で、
「雨の降り初め、(農産物の)熟れ初めで、大地が潤いはじめる頃」
が「うりずん」。
旧暦2,3月の、若葉が一斉に咲き、草花はその彩りを増して、
大地を活き活きと潤していくていく、
そういう趣ある言葉で、本土でいう「春」とか「初夏」とはちょっと違う。
沖縄では「うりずん」は過ごしやすい、
そういった活力ある春のことをいうけど、
最近の快適な過ごしやすさは、まさに「うりずん」みたい。
私はナイチャーだから「秋」を感じてしまうさ。
てふてふの撮影は難しいね。
翅を広げたところや閉じたところなどを撮影しようと思っても、
ひらひら舞ったり、翅を広げないとか閉じないとか、なかなかじれったい。
てふてふは日常的に多種が舞っているので、
撮影チャンスはいくらでもあると、ついついあきらめてしまう。
過ごしやすくて「秋」をイメージさせるので、
「秋風に 何のゆかりぞ 黒き蝶」
という句を想い出した。
これは江戸時代前期の生駒万子(いこままんし)の俳句。
万子といっても、女性ではなく加賀金沢藩士、つまり武士で普請奉行というエリート。
普請奉行というのは建物や堤防などの新築、リフォームなど
土木建築全般の担当部長みたいな役職。
若い頃から俳句の達人で、
「1689年(元禄2年)、芭蕉に入門」
と、簡単に書かれていることが多い。
芭蕉は1689年(元禄2年)3月27日に、江戸深川から奥の細道の旅に
河合曾良(かわいそら、芭蕉の門弟)を伴って出発し、
東北方面から山形、新潟を回り7月中旬には金沢に行って、生駒万子と会っている。
この時に弟子入りした、ということみたいだね。
小松に7月24日~26日まで滞在し、7月27日~8月5日までは山中温泉に滞在している。
村井屋塵生(むらいやじんせい、加賀小松の俳人)から
「天神(小松天満宮)奉納発句」の依頼を芭蕉が引き受け、
8月5日、芭蕉は伊勢に向かう曾良と別れて、小松に戻る。
芭蕉に同行した曾良による「曾良旅日記」によると、8月5日の項に
「翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也…、艮刻、立。大正侍に趣く」
とある。
芭蕉は立花北枝(ほくし)とは7月26日に、地元の俳人・歓生(かんせい)宅の
離れ屋敷で行われた「十一吟歌仙」という11人による歌会で出会っている。
芭蕉は5日にこの北枝と那谷寺参詣し、翌日小松で出会い、曾良自身は
大正寺=大聖寺(だいしょうじ)に向かう、という意味。
なので、8月6日に芭蕉と生駒万子が出会ったことになっている。
当日、生駒万子は芭蕉を小松天満宮に案内し、小松・梅林院に滞在していた、
連歌師の上大路能順(かみおおじのうじゅん)を紹介している。
小松天満宮の奉納発句の打ち合わせだろうね。
芭蕉の奥の細道は約600里(約2400km)約150日の、当時では破格の大旅行をした。
鉄道も車も自転車もなく、舗装もされていない道でスニーカーもなく、
もちろんコンビニやATMもない時代。
費用も膨大だったろうし、体力的にも難儀だったはず。
行く先々で、地元の俳人たちに出会い、そこで弟子になった人たちも相当いたはず。
今だったら、池袋の大勝軒ののれん分け問題のように、
芭蕉の看板をフルに利用する俳人だっているんだろうね。
問題なのは「看板」じゃなくて、中身なんだけどね。

沖縄には春夏秋冬の「秋」がない3シーズンなんだけど、
ここ数日、めっきり涼しくなってきた。
日中気温は30度を少し割り込み、夜は21度くらいに冷え込む。
山原(やんばる)は、本島南部に比べると、
山岳地帯ということもあって気温が2度は低い。
けど、今くらいが過ごしやすいね。
春の「うりずん」みたい。
沖縄で最も過ごしやすいのは、「うりずん」と10月だよ。
「うりずん」というのは、ひと言でいえば「春」とか「初夏」なんだけど、
「潤い初め(うるおいぞめ)」を語源としたおもろ語(古代琉球語)で、
「雨の降り初め、(農産物の)熟れ初めで、大地が潤いはじめる頃」
が「うりずん」。
旧暦2,3月の、若葉が一斉に咲き、草花はその彩りを増して、
大地を活き活きと潤していくていく、
そういう趣ある言葉で、本土でいう「春」とか「初夏」とはちょっと違う。
沖縄では「うりずん」は過ごしやすい、
そういった活力ある春のことをいうけど、
最近の快適な過ごしやすさは、まさに「うりずん」みたい。
私はナイチャーだから「秋」を感じてしまうさ。
てふてふの撮影は難しいね。
翅を広げたところや閉じたところなどを撮影しようと思っても、
ひらひら舞ったり、翅を広げないとか閉じないとか、なかなかじれったい。
てふてふは日常的に多種が舞っているので、
撮影チャンスはいくらでもあると、ついついあきらめてしまう。
過ごしやすくて「秋」をイメージさせるので、
「秋風に 何のゆかりぞ 黒き蝶」
という句を想い出した。
これは江戸時代前期の生駒万子(いこままんし)の俳句。
万子といっても、女性ではなく加賀金沢藩士、つまり武士で普請奉行というエリート。
普請奉行というのは建物や堤防などの新築、リフォームなど
土木建築全般の担当部長みたいな役職。
若い頃から俳句の達人で、
「1689年(元禄2年)、芭蕉に入門」
と、簡単に書かれていることが多い。
芭蕉は1689年(元禄2年)3月27日に、江戸深川から奥の細道の旅に
河合曾良(かわいそら、芭蕉の門弟)を伴って出発し、
東北方面から山形、新潟を回り7月中旬には金沢に行って、生駒万子と会っている。
この時に弟子入りした、ということみたいだね。
小松に7月24日~26日まで滞在し、7月27日~8月5日までは山中温泉に滞在している。
村井屋塵生(むらいやじんせい、加賀小松の俳人)から
「天神(小松天満宮)奉納発句」の依頼を芭蕉が引き受け、
8月5日、芭蕉は伊勢に向かう曾良と別れて、小松に戻る。
芭蕉に同行した曾良による「曾良旅日記」によると、8月5日の項に
「翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也…、艮刻、立。大正侍に趣く」
とある。
芭蕉は立花北枝(ほくし)とは7月26日に、地元の俳人・歓生(かんせい)宅の
離れ屋敷で行われた「十一吟歌仙」という11人による歌会で出会っている。
芭蕉は5日にこの北枝と那谷寺参詣し、翌日小松で出会い、曾良自身は
大正寺=大聖寺(だいしょうじ)に向かう、という意味。
なので、8月6日に芭蕉と生駒万子が出会ったことになっている。
当日、生駒万子は芭蕉を小松天満宮に案内し、小松・梅林院に滞在していた、
連歌師の上大路能順(かみおおじのうじゅん)を紹介している。
小松天満宮の奉納発句の打ち合わせだろうね。
【渡り鳥のタカ科のサシバ、「ピィ~、ピィ~」と鳴いている】
芭蕉の奥の細道は約600里(約2400km)約150日の、当時では破格の大旅行をした。
鉄道も車も自転車もなく、舗装もされていない道でスニーカーもなく、
もちろんコンビニやATMもない時代。
費用も膨大だったろうし、体力的にも難儀だったはず。
行く先々で、地元の俳人たちに出会い、そこで弟子になった人たちも相当いたはず。
今だったら、池袋の大勝軒ののれん分け問題のように、
芭蕉の看板をフルに利用する俳人だっているんだろうね。
問題なのは「看板」じゃなくて、中身なんだけどね。