はいさい、RINです
ソウシジュ(相思樹)は、フィリピン、台湾の原産で、
樹形はそれほど魅力的ではないのですが、
とにかく、その「相思」という名前が魅惑的なのです。
マメ科アカシア属のソウシジュ(相思樹)は、
1902年(明治35年)に台湾から小笠原の父島、 母島、弟島に植栽され、
この結果が良好だったことで、その4年後の1906年(明治39年)に
沖縄に、防風林用の木として台湾から導入されました。
大木なので台風で倒壊はしにくいですが、
防風林にはなり得ないと思います。
日本は日清戦争に勝利し、1895年(明治28年)に
下関条約によって台湾の統治権を得ましたが、
小笠原や沖縄にソウシジュ(相思樹)が導入されたのは、
後藤新平を民政長官に起用した
第4代総督・児玉源太郎の時代にあたります。
児玉源太郎は、実務を後藤新平に全権委任していたので、
「小笠原や沖縄にソウシジュ(相思樹)を導入したのは後藤新平」
といえそうです。
沖縄では、防風林用というより、
街路樹や公園、学校の校庭樹として見かけることが多く、
沖縄の方言名では「ソーシギ」「ソーシジ」といいます。
ソウシジュ(相思樹)の語源は、
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
にあります。
今から2300年前の紀元前、中国の春秋時代の大国・宋に
康王(こうおう)という暴君の時代の
有名な物語なのです。
この康王の侍従・韓憑(かんぴょう)の妻・何氏(かし)が絶世の美女で、
康王は、この妻を強引に側室にしてしまうのです。
愛妻を奪われた韓憑は王を恨み、
王はそれに逆ギレして、韓憑に重罰を与え、
悲観に暮れた韓憑は哀れにも自殺してしまいます。
それを知った何氏は、康王宛てに
「私の死後、私と夫を合葬するように」
と遺書を残し、韓憑の跡を追いました。
怒った康王は、その願いを無視し、
韓憑の墓と向い合せに何氏の遺体を埋めさせたのです。
数日後、それぞれの墓から二本の梓が生え、
十日もすると大きな木になり、
その二つの梓は互いに幹を曲げて寄りかかり、
土の中では根が絡み合い、地上では枝が絡まり合い、
やがて、ひとつの木のようになりました。
そして、その樹上では二羽の鴛鴦(えんおう)が巣をつくり、
日夜そこを去らず、悲しげに鳴き交わしていました。
それを見た人々は、
「悲しくこの世を去った韓憑と何氏の生まれ変わりだ」
と言いはじめました。
これが
「鴛鴦(えんおう)の契り」
という故事が生まれた所以(ゆえん)です。
人々は、この木を「相思樹」と名付け、
「相思」という語源も、ここから始まっている、といわれています。
「鴛鴦(えんおう)」
とは、「おしどり」のことで、
「鴛(えん)」は雄、「鴦(おう)」は雌を表している、といわれています。
おしどりは、いつも雄と雌が寄り添って離れないことから
「おしどり夫婦」
という語源も、ここからです。
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
深く愛し合いながらも、悲劇の生涯を送った夫婦の墓を守る梓の木の上で、
おしどりの雄と雌が寄り添い、一日泣き続けた…、
ドラマチックな純愛STORYですよね。
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
は、夫婦仲が良いことの例えとして使われることばなので、
私たちも見習わなければいけません。
ソウシジュ(相思樹)の花言葉は
「秘密の愛」
「相思相愛の夫婦愛の賛歌」のはずが、
「昼顔的な愛」のような花言葉になっているようで、
ちょっと違うような気がするのは、私だけでしょうか…。

ソウシジュ(相思樹)は、フィリピン、台湾の原産で、
樹形はそれほど魅力的ではないのですが、
とにかく、その「相思」という名前が魅惑的なのです。
マメ科アカシア属のソウシジュ(相思樹)は、
1902年(明治35年)に台湾から小笠原の父島、 母島、弟島に植栽され、
この結果が良好だったことで、その4年後の1906年(明治39年)に
沖縄に、防風林用の木として台湾から導入されました。
大木なので台風で倒壊はしにくいですが、
防風林にはなり得ないと思います。
日本は日清戦争に勝利し、1895年(明治28年)に
下関条約によって台湾の統治権を得ましたが、
小笠原や沖縄にソウシジュ(相思樹)が導入されたのは、
後藤新平を民政長官に起用した
第4代総督・児玉源太郎の時代にあたります。
児玉源太郎は、実務を後藤新平に全権委任していたので、
「小笠原や沖縄にソウシジュ(相思樹)を導入したのは後藤新平」
といえそうです。
沖縄では、防風林用というより、
街路樹や公園、学校の校庭樹として見かけることが多く、
沖縄の方言名では「ソーシギ」「ソーシジ」といいます。
ソウシジュ(相思樹)の語源は、
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
にあります。
今から2300年前の紀元前、中国の春秋時代の大国・宋に
康王(こうおう)という暴君の時代の
有名な物語なのです。
この康王の侍従・韓憑(かんぴょう)の妻・何氏(かし)が絶世の美女で、
康王は、この妻を強引に側室にしてしまうのです。
愛妻を奪われた韓憑は王を恨み、
王はそれに逆ギレして、韓憑に重罰を与え、
悲観に暮れた韓憑は哀れにも自殺してしまいます。
それを知った何氏は、康王宛てに
「私の死後、私と夫を合葬するように」
と遺書を残し、韓憑の跡を追いました。
怒った康王は、その願いを無視し、
韓憑の墓と向い合せに何氏の遺体を埋めさせたのです。
数日後、それぞれの墓から二本の梓が生え、
十日もすると大きな木になり、
その二つの梓は互いに幹を曲げて寄りかかり、
土の中では根が絡み合い、地上では枝が絡まり合い、
やがて、ひとつの木のようになりました。
そして、その樹上では二羽の鴛鴦(えんおう)が巣をつくり、
日夜そこを去らず、悲しげに鳴き交わしていました。
それを見た人々は、
「悲しくこの世を去った韓憑と何氏の生まれ変わりだ」
と言いはじめました。
これが
「鴛鴦(えんおう)の契り」
という故事が生まれた所以(ゆえん)です。
人々は、この木を「相思樹」と名付け、
「相思」という語源も、ここから始まっている、といわれています。
「鴛鴦(えんおう)」
とは、「おしどり」のことで、
「鴛(えん)」は雄、「鴦(おう)」は雌を表している、といわれています。
おしどりは、いつも雄と雌が寄り添って離れないことから
「おしどり夫婦」
という語源も、ここからです。
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
深く愛し合いながらも、悲劇の生涯を送った夫婦の墓を守る梓の木の上で、
おしどりの雄と雌が寄り添い、一日泣き続けた…、
ドラマチックな純愛STORYですよね。
「鴛鴦の契(えんおうのちぎり)」
は、夫婦仲が良いことの例えとして使われることばなので、
私たちも見習わなければいけません。
ソウシジュ(相思樹)の花言葉は
「秘密の愛」
「相思相愛の夫婦愛の賛歌」のはずが、
「昼顔的な愛」のような花言葉になっているようで、
ちょっと違うような気がするのは、私だけでしょうか…。