ペリー提督率いる米国海軍の「北太平洋遠征隊」が、
日本開国交渉前に沖縄の那覇港に「開国交渉の基地」として
寄航したのが1853年から翌54年にかけてのことですから、
今から153~154年前のことになります。

ペリー提督は、琉球内陸部調査と共に、
約200種類の植物を採集して米国に持ち帰っているのですが、
この中には「コーヒー」はありませんでした。

現在、樹齢100年以上のコーヒーの木は、
いずれも沖縄本島中北部にありますが、
樹齢150年を超えているものはさすがになさそうです。

1609年に、
琉球王国は薩摩藩島津忠恒に占領されてしまうのですが、
それ以前の琉球は、
「大交易時代」と呼ばれる繁栄期があって、
西欧~インド~東南アジア~中国~琉球~種子島~九州という
海上交易ルートが確立され、
「アジアのハブ港」として機能していましたから、
その時代にも品種はともかく
コーヒーの木が移入されていた可能性は否定できません。

沖縄移住 コーヒー栽培 ブルーボトルコーヒー
【コーヒーの成木】

近年の沖縄コーヒー
1.うるま市(旧・具志川市兼箇段)の「和宇慶コーヒー」
・1972年の沖縄本土復帰に伴ない
 和宇慶さんの妹が「お土産に」と
 ブラジルから持ち帰った15粒のコーヒーの種が、
 記録にある沖縄コーヒー栽培の原点となっています。

・当時の和宇慶さんは中部農林高校に勤務されていて、
 農業の基本的な知識があったことから
 「沖縄でも栽培できないか」と
 興味本位で種を植えたところ発芽したことで、
 本格的に着手することに至りました。

・1980年には、自身がブラジルに渡り
 国立農業試験場でコーヒー栽培を学んで
 以降本格的にコーヒー栽培に着手しました。

・沖縄コーヒーを県内に普及させるため
 度々「コーヒー講座」を開き、
 延べ約200名が受講した、と聞いています。

・自宅庭の約1,500坪の農園に
 約1千本余りのコーヒーを植えられていましたが、
 度重なる台風でコーヒー園は残念ながら壊滅してしまい、
 現在は朝伝さんの息子さんが
 コーヒーの苗木販売を手がけています。

・私も7年前にコーヒーの苗木を6鉢買わせて戴きました。
 朝伝さんは、当時(93歳)は入退院を繰り返されていました。

2.恩納村の「ヤマーコーヒー」
・前述の和宇慶さんの「コーヒー講座」を受講し、
 ただ一人受け継いだのが山城武徳先生(75歳)で、
 現在の沖縄コーヒーの第一人者です。

・沖縄戦以降、10を越える職業に就きながら、
 そのノウハウを全て吸収しているために、
 自身で何でも作り上げる器用さを持ち合わせています。

・和宇慶さん同様、中部農林高校の教師となられて、
 基本的な農業知識を持たれてコーヒー栽培に活用されています。

・現在、約3,500坪で約2,000本のコーヒーの木を
 栽培されています。

・毎年11~3月ごろ、
 恩納村の体験学習(修学旅行)の受入れをされています。

・私は山城先生から、コーヒー栽培を学習させて戴きました。

3.東村の「ヒロコーヒー」
・大阪で電気工事をされていた足立浩志さんが、
 ハワイ島のコナ地区でコーヒー栽培を3年修行され、
 小笠原か沖縄かの選択で沖縄を選び、
 苦難の末コーヒー栽培を確率させました。

・最初のコーヒー苗木は、前述の山城武徳先生から数鉢買われ、
 コーヒーの実を付けるまでの数年間は
 名護市でタクシーの運転手をされていたのです。

・農地を借りるのにも苦労の連続で、
 ようやく現在の土地を農家から直接借りて栽培されています。

・カフェも出されていますので、
 現在沖縄で「沖縄コーヒー」が堪能出来るのは、
 唯一ここしかないはずです。

その他、鉄骨ガラスハウスやビニールハウスで
コーヒーを栽培されている方や、
露地栽培に挑戦されている方、
離島でのコーヒー栽培…
など県内のコーヒー栽培状況はだいたい把握していますが、
せっかく収穫出来た沖縄コーヒーを
輸入コーヒーと混ぜてしまう方もいて、
“理念”が違うようですから、
ここでは触れないようにしておきます。

沖縄県内では、コーヒーを庭に植えている方は
わりと多く見受けられますが、加工方法が分からず、
あるいは面倒だということで放置されていることが多いです。
もったいないですよね。

沖縄でのコーヒー栽培は“台風”対策が必須で、
またこれを上回る“情熱”がない人は、
次々に脱落しているのが現状なのです。