生きるとは | 4-CERのブログ

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昨日の朝に

お父さんの兄貴が亡くなった


去年

母が余命を宣告されその間に家族で交代しながら病院で寝泊りしてたとき


同じ病院に

お父さんの兄貴が運ばれてきた


脳内出血で緊急搬送


意識も無く

即手術


後から訊いた話によると


飲みから帰ってきて家の階段近辺で倒れてるのを発見されたらしい


でも財布の中身が無かったみたい


脳内出血で倒れたときに壁か何かにぶつけたらしく顔などに傷があった

同じ敷地内の人が発見してくれて通報し病院に運ばれた


結果論から言うと

そのときからずっと意識が無く

植物状態のまま

昨日息をひきとりました


もう少し発見が早かったら・・・

財布の中身は誰か取ったのかな?

その人が通報してくれたらもっと早く発見できたはずなのに


でも去年からずっと

僕達は意識が戻ることを願ってた


だから最後に会った時も


また来るね!!


って言って仙台に戻ってきた


また会えると信じてたから

だから通夜にも、葬式にも行けない俺は

さよならが言えない


この歳になると

色んな別れが来るのはわかってる事だけど


こういう別れ方はしたくない


もっと沢山話したいこともあったし


何よりも

長男が中々生まれなかったおじさんの家に

俺が養子に行くことになりそうなぐらい俺を可愛がってくれた


昔から本当可愛がってくれた

会うたびに

おじさんの子供になるとこだったんだよ~

なんて嬉しいそうに話してくれてた


大人になって


去年初めて一緒にお酒を飲んだ

お父さん

お父さんの兄貴

そしておじさんと俺

この四人で

朝まで飲み明かしたよ

あの日が最後になるなんて


うちの家族はみんな歌が上手いんだよ俺以外

お父さんの兄弟も勿論歌が上手い

でもずば抜けて上手いのが

おじさんだった

初めて聴いて感動したよ


夢を追いかけてる俺の背中を押してくれて

いつも頑張れって言ってくれた



人はいつか命が尽きるけど


どんなに後悔しても戻ることは出来ない

いつそのときがくるかもわからない

明日事故で死ぬかもしれないし

病気になるかもしれない


そんな中生きてる


誰かが望む明日を

俺が今日だらだらと過ごしてるのかもしれない


兄貴が母さんが亡くなったときに


これから先

例えばお前が死んだり

親父が死んだり

逆に俺が死ぬことでお前達に同じ様な思いをさせるんだな

何のために俺達は生きてるのかな

こんな苦しみは耐えられない


そんなことを呟いた事があった

俺はそれに対して


だからあの時こうしておけば

ってのが無いように今のうちに出来ることはしなきゃね


って話をしたけど

兄貴の気持ちは分かる


生きるって何だろうね

自分の楽しみだけをかんがえていくのもそれはいいかも知れないね

家族のために生きるのもいいかもしれないね


でも俺は

まだ不完全なこの俺の思い

人生経験が無いこの人生だけど

俺が見てきた世界

感じた思い

人から聞いた感情

人から教えてもらった幸せの感じ方

愛のあり方

生と死と向き合ったこと


そんな全てを

友達

恋人

家族

だけじゃなく

自分に携わる全ての人に伝えられる人になりたい

音楽を通して

それ以外のことでも


例えばこのブログもそう


そうすることで

このおじさんの死も

母さんの死も

また一つ意味のあるものになるし

俺が生きた意味もまた増えるし

兄貴がつぶやいた言葉も


またそれが言霊となって誰かの心に届いて

新しい感情が生まれたり

意識が変わったりするんでしょう


世界平和なんてでかい話は出来ないけど


小さなことかも知れないけど

こういう

心が動いたことを

伝えていける人になりたい


そしていつか

俺が死ぬとき


俺みたいなことを考える人が沢山増えてたら

いいなって思う


こうちゃんおじさん

また一緒に飲みたかった


その分

あなたの子供と呑むことにするよ


いつか俺がそっちに行くとき

また泡盛で乾杯しようね