「関心領域」 | 額縁の外側

「関心領域」


先日観てきた「関心領域」の感想。

まずはネタバレなしパートをつらつらと。

あ、その前にこの日ですね、朝からイスラエルが殺害する対象者リスト作成をAIに任せ、それに従った結果、多数の民間人が犠牲になっている、という記事を読んだのですよ。

とても非情な話しですが、「殺す人を選別する」ことは人にとって色んな意味で負担があるから、AIに任せることで、人の負担は減らしたんだな、とか。

でも負担を減らすために殺す対象者の範囲を広げ、多数を処理するのにAIを使ったわけで、そういう人間の思考のありようがキツい。

思うところは色々あり、そういうことを考えていたから、映画館の椅子に座った時点でちょっと心臓が痛いくらいでした。

さて、映画。

第二次世界大戦下のドイツ。
アウシュビッツ収容所の隣に住む家族の光景。
仲睦まじい夫婦、子どもたちに愛情を持って接する姿、季節の花々を愛おしむ様子が映りだされます。

本編、映像の多くはそういう「家族の暮らし」が映し出されています。
が、絶えることなく収容所から銃撃、呻き、喚き、それも単一で「それが何の音か分かる」というより、多数重なり、蠢く渦のように音が空間を満たしています。

「この音は何が行われているところなのか」

考えると、とても怖い。

そんな音の中で家族の「普通の」暮らしが続きます。

そこで思ったのは、あること、とくに悲劇や苦痛を自分にとって「ないこと」とすることは、時に必要だということ。
この世のあらゆる悲劇に思いを入れていたのでは自分がもたないから、自分を守るために。
そして自分を守ることは自分の周囲の人たちを守ることでもある。
だから、「ないこと」とする人たちを責められるだろうか?
って。

しかし、「関心領域」ってタイトルに引っ張られて関心ー無関心で考えたけれど、彼ら、そこで起こっている出来事は承知しているんですよね、当たり前ですけど。

夫はアウシュビッツ収容所の所長です。

最初の方で、時間差で次々『荷』を焼く焼却炉を「効率的」だと、高く評価しています。

彼らにとって、隣りの収容所で行われていることって、忌むべき殺戮行為ではないんですよね。

知ると、聞くと、自分の心の平穏が乱されてしまう音ではないんですよ。

むしろ国の正義のため、悪を駆逐している音なんですよね。


人は群れで生きる生物なので、大抵は何かしらの共同体に属しています。
組織しかり、国しかり。

共同体の中で楽に、時にうまく生き抜くには、共同体の価値観に染まることなんだな、って。



 ここからネタバレゾーン


さて、ネタバレゾーンですけど。

この映画の中で一番ゾッとしたのは妻の言動かも。

家族を愛し、花を慈しんで暮らしている女性です。

が、収容所の所長である夫が転任を命じられるんです。
「楽園」だと彼女が評しているその家から、よその土地へ引っ越さなけれはいけない。

その時の烈火のごとき怒りっぷり。

利己的な人間のさがが醜悪に露呈していて。

このシーンの辺りから「無関心」ともまた違うよな、って思い始めたんですよね。

自分を守るための無関心より、たちが悪い。

夫の方は妻の要望を叶えるため、自分は赴任先では簡素な住まいでいいから、家族は今の家に引き続き住まわせてほしいと、上司に願い出ています。

夫婦間のベタベタした愛情表現はないですが、少なくとも夫から妻への愛情は深いんですよね。

願いが聞き入れられ、夫だけ赴任先に行くことに。
「寂しくなる」とか愛を確かめるように語り合ってますが、言えば単身赴任じゃないですか。
すぐ隣りで、もっともっと残忍な行為で引き裂かれている絆があるのに。

映画の中、収容所の音に明確な反応を見せたのは、子どもです。

一人、部屋で遊ぶ少年。
収容所で、りんごを分け与えなかったか何かで看守が人を痛めつける声や音が響きます。

少年が一瞬、窓の外をのぞき込みます。

人が音への反応を見せたのは、この瞬間だけだったかも。

それまで、突発的な銃声や、大きな呻き声にも、驚いたような反応一つ、誰も見せなかったので。

窓から離れた少年は
「次からはやるなよ」
と言って、また遊びに戻ります。

少年は、物心ついた時から「ユダヤ人とはそういう扱いを受けるもの」という価値観の中で生きてるんですよね。

余談ですが、昔勤めていた会社で、出入り口付近に高価な壺が置かれていたんですよ。
しかしそれ、傘立てに間違われちゃうことがあって。
そんな壺をそんなとこに置くなよ、という感じなのですが。

一人がなにげなく傘を入れちゃうと、次々と人が傘入れちゃうんですよね。

一人の人の何気ない行いで、高価な壺も人々から傘立てとして扱われちゃうんです。
もちろん罪悪感とかもなく。
 
これって、対・人でも普通に起こることで。

少年にとってはユダヤ人とはそういう扱いを受けることが普通になっている。

その価値観から脱するには、共同体を出る、共同体の外から見て、考えなければいけないけれど、人って何かしらの共同体に属していないと生きられないですからね。

国に異論を唱えて処刑される。

それって後世や他の共同体から見てその「異論」が正しい価値観であれば「正義を貫いた人」的に見られるけど、何が善か悪か。
結局国や時代にやって変わってくるから、本当に難しいですね。

私も今、日本で民主主義の中で生きる立ち位置で語ってるけど、外から見れば正しいわけではないし。

宇宙人から見れば、資本主義が覆う地球を、あらゆること、人の価値さえ金に換算するなんて野蛮で未発達って思うかもだし。

じゃあ宇宙人が到達しているかもしれないより良い価値観みたいなものを、今の自分の「枠」で考えられるわけじゃないしね。

「関心領域」では、最初、無関心の怖さを思ったけど、そこから共同体で価値観を共有して生きる怖さや、でも何かしらの共同体に属して生きる以上、どう生きるのが「良いこと」なのか、とか考えました。

善悪の価値基準は流動的、そして倫理的に「正しい」ことと、自分の人生にとってプラスになることって常に一致しているわけでもないから・・・
死ぬまで答えは出ないかも。