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日本の歴史 第1弾 太平洋戦争についてその1

日本の歴史で今まで、1番大きな出来事はおそらく太平洋戦争であろう。今の日本があるのもこの出来事があったからだろう。たぶんもしこの戦争がなければ今日本はどうなっていたのだろうか。そういうことも考えて読んでほしいです。










太平洋戦争についてその1


宣戦布告と開戦





日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バル
に接近、午前1時30分に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦
)、イギリス政府に対する宣戦布告
前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。


続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島
にあるアメリカ軍基地に対する攻撃(真珠湾攻撃
)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。


日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎
特命全権大使と野村吉三郎
大使が米国務省
コーデル・ハル
国務長官に「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていて、また、アメリカに対し宣戦布告をする可能性が高いことも分かっていたが、野村吉三郎
が陸軍主計大佐新庄健吉
の葬儀に参列していた[15]
ため、真珠湾攻撃後の手交となった。


なお、この覚書には戦争をうかがわせる記述が無く、「宣戦布告無しのだまし討ち」であるとアメリカ大統領が議会で発言している。また、日本側でも宣戦布告と受け取られない事を懸念して修正を求める声もあったが、外務大臣が無修正で押し切っている。


なお、日本はイギリスに対して開戦に先立つ宣戦布告は行っておらず、対英開戦後の12月8日の朝7時半になってロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡したものの、これは正式な宣戦布告ではなかった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した[16]


公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説
の根拠となっている。


また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した日本海軍所属の特殊潜航艇
がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件
)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。


日本軍の攻勢








日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)



1940年9月以降日本軍は仏印進駐
を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。12月8日
に日本陸軍がタイ
国境近くの英領マレー半島
コタバル
と、中立
国だったタイ
南部のパタニ
ソンクラ
の陸軍部隊の上陸(マレー作戦
の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ
真珠湾
のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃
フィリピン
への空爆、香港
への攻撃開始、12月10日
イギリス海軍
東洋艦隊に対するマレー沖海戦
などの連合国軍
に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイ
の合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻した[17]
ことに最高司令官(大元帥
)である昭和天皇
の怒りを買った。






マレー半島
に上陸した日本陸軍



なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日
に、海軍軍令部総長の永野修身
と同じく陸軍参謀総長の杉山元
により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。上陸作戦は宣戦布告無く開始された。



日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させ、戦艦8隻を撃沈するなどの大戦果を挙げたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島
の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦
が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。


また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコ
サンディエゴ
などアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。






日本海軍
による真珠湾攻撃
で雷撃を受けるアメリカ海軍
戦艦
(1941年)



しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル
紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈
で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴ
で阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。






日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス



一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機
一式陸上攻撃機
)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
と巡洋戦艦レパルス
を一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。


この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島
[18]
フィリピン
[19]
ボルネオ島
(カリマンタン島)[20]
ジャワ島
スマトラ島
[21]
などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍
などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍
も瞬く間にイギリス領であったシンガポール
やマレー半島全域、同じくイギリス領の香港
、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモール
と、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオ
については、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった[22]


真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告し、12月11日には日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。






ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵












降伏交渉を行う日本軍の山下奉文
大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将



前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約
を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年
1月8日
からイギリス軍やアメリカ軍がバンコク
など都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日
にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。


1942年
の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦
が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州
・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州
にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容
の本格化に繋がったとも言われる。






イギリス海軍のドーセットシャー



日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦
でアメリカ、イギリス、オランダ海軍
を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦
では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文
大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日
にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポール
が陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦
でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島
に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦
)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサー
は多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーン
を占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。






日本軍に降伏するフィリピン
駐留のアメリカ軍兵士







サンフランシスコ
市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルター
への避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令



同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー
)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋
に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ
)のコロンボ
、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ
、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦
)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ
東岸のケニア
キリンディニ港
まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦
は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦
(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[23]
へと派遣され、エニグマ暗号機
などを持ち帰った。


この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランス
が統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル
島を南アフリカ軍
の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い
)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇
ディエゴスアレス
港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。


第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーン
を遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦
)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い
ニューギニアの戦い
が開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗してゆくことになる。






珊瑚海海戦
で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン



1942年5月に行われた珊瑚海海戦
では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントン
を失ったが、日本軍も小型空母祥鳳
を失い、翔鶴
も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー
攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦
を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。