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太平洋戦争について その3

戦争もとうとう終盤に、近ずいてきましたね。終盤に近ずくにつれどんどん被害が大きくなっていきます。
それではどうぞ。




戦争末期
前年のフィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった[25]。


焼夷弾を投下するアメリカ軍のボーイングB-29戦略爆撃機
前年末から、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍はB-29を撃墜するための新型戦闘機「震電」などの迎撃機の開発を進めることになるが実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。
3月10日には明らかな国際法違反である無差別爆撃・東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が在マリアナ空軍総司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍やイギリス軍は、度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。


硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT


硫黄島で戦死した栗林忠道中将
また、この一連の爆撃に先立ち、2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。
迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策法を編み出していた英米軍に対し、劣勢になっていった。
この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。


沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス」


沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵
その後、5月7日には同盟国の中で最後まで抵抗していたドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。(とはいえ、元々ドイツとは距離的に離れていたこともあって、当初から実質的に一国で戦っていたようなものだったが)このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。


米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である世界最強の戦艦大和も4月7日に撃沈され(大和を沈めるべく投入されたアメリカ軍の航空機は400機を越える空前絶後の大編隊であったものの、大半が被弾しており翼や武器がもげたものもあった)、残されたのは長門や榛名を筆頭とする戦艦部隊に、日向、伊勢の航空戦艦、雪風を筆頭とする「駆逐艦」の艦隊や特攻兵器の「震洋」の部隊・葛城ら少数の艦隊のみであった。また、作戦用航空機のみでも約7500機、陸軍機と併せると1万機以上の作戦用航空機が残存していたが[26]、これらの航空機は本土決戦用に温存された。
この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与えるなど、日本陸海軍も必死の反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いている上、日本の降伏はもはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの日本の戦争終結により実行されなかった。1945年7月26日に連合国によりポツダム宣言が宣言される。


広島に投下された原子爆弾のきのこ雲


原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らす為と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。
その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。
6月22日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれる事無く、速やかに具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結の事を口にされた。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍とちがって陸軍は、降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。

玉音放送。昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を読み上げるラジオ放送。昭和20年(1945年)8月15日正午放送




大東亜戦争終結ノ詔書


降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官


降伏文書に署名するマッカーサー元帥。
翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。8月14日には葛根廟事件が起きた。そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した(三船殉難事件)。
また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[27]の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。しかし、南樺太や千島列島では、9月4日までソ連軍との間で大規模な戦闘が行われた。また、沖縄や南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者がでた。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵が参加することとなった。