こんにちは。ちょこ3です![]()
前回の内容は、
現在に伝わる【宗教】の内容が、多くの人間の介入により、全て「正しい」とは限りません。
【本質】を見極めたい方は、【真理】の探究をされるでしょう。
個人により【宗教観】が違うので、同じ【宗教】の同じ【教え】でも、解釈が違います。
イエス様とユダヤ教の人々が、[聖書]の問答をされている場面が、その例です。
今回の内容は、
同じ宗教の同じ教えでも、人により【解釈】が違います。
【認識】と【理解】の差を、実感して頂こうと思います。
「聖書」に「いちじくの木を呪う」「枯れたいちじくの木の教訓」が記されています。
イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。
いちじくの季節ではなかったからである。
その木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。
…いちじくの木が根まで枯れていた…。
「いちじくの木」は聖書に何度も出てきます。
この内容を【認識】しても、【理解】するのは難しいです。
多くの方々が考察されているので、幾つかを参考にされると良いでしょう。
ここでは、いちじくの木の立場で考えてみましょう。
全てのいちじくの木ではありません。
このいちじくの木は、葉が茂る程、自分が立派だと思っていました。
いちじくの季節になれば、沢山の実が成るはずだと、自負していたのです。
ある日、お腹を空かせた者が、隣に立ちました。
いちじくの木は言いました。
「今の時期の私は、貴方を助けることが出来ません」
さて、皆様。
お腹を空かせた者は、いちじくの季節まで、待てるでしょうか?
困っている方に「手を差し伸べる」「助ける」時期は、自分の都合の良い時でしょうか?
例えるなら、「宝くじで億が当たったら、寄付をする」と言う方が、いつも募金箱を素通りするようなものです。
見破られたいちじくの木は、プライドが傷付いたでしょうし、ショックを受けたでしょう。
利他の心で、他者に向き合わなければいけません。
植物も【修行】をしています。
例えば、
神社・仏閣の参道の木々は、参拝者に癒しを与えます。
葉や実は、御守りになる場合もあります。
紙になり、御札にもなります。
お花をお供えして、ご先祖様の癒しも出来るのです。
虫や動物も、神仏のお手伝いをしているように、植物もしています。
植物にも、不思議な出来事が起きたりします。
季節を勘違いして、花が咲いたりもします。
季節を勘違いして花が咲くように、
「心の中で少しも疑わず、信じるならば、そのとおりになるのです」
皆様の中には、こう言われる方もいるでしょう。
「今の私には、何も出来ません」
植物の場合なら、
・お水や肥料をあげる
・話しかける
・お花・野菜・果物・木の実など、他者にあげる
これだけでも、植物と一緒に【修行】が出来ると思いませんか?
「今の私にも、出来る事はある」
そう信じて、簡単な事から始めると良いでしょう。