男は、その国で最も名声を得た俳優であった。
18歳で舞台を始め、25歳でその国で最も権威のある演劇賞を受賞し、30歳の時、史上最年少で500年前の天才が書いた戯曲の主人公の国王の役を演じきった。
32歳で主な活動を映画に移してからの活躍はもはや圧倒的で、わずか2年でその国の賞レースを総なめにする。若手から大御所まで、全ての人が彼の力を認めた。
魅力的な貌、鍛え抜かれた肉体、愁いをおびた瞳の存在感、よく通る少し低い声、そして時に繊細で、時に豪快な圧倒的な演技力。派手なアクションさえ、彼はスタントなしで自ら演じた。
名声に驕ることなく、常に真剣に役に向き合った。誰もが知っている俳優でありながら、作品のたびに誰も見たことがないような男を演じきった。
彼が『演じられなくなった』のは、37歳の時であった。
久しぶりの舞台の稽古中だった。前代未聞の制作費を投じられた大作。世界中を回る、伝説の作品になるはずであった。
脂汗をびっしりにじませて彼は、突然台詞が出なくなった。
やっと出てきた言葉は、18歳の時、初舞台で演じたカメラマンの台詞だった。誰もが冗談だと思った。しかし彼の口からは次々と、かつて演じた登場人物たちの台詞があふれ出た。そしてそのまま彼は気を失った。
目を覚ました彼はもうかつての彼ではなく、ただの虚ろな何かだった。時々うつろにつぶやく出る言葉は、どれもかつて演じた台詞だった。28歳の時に共に夫婦役を演じた彼の妻は、毎日涙に暮れた。
三日経って、彼は突如覚醒し、そして言った。
「役が僕を侵食するんだ。僕がどこかに行ってしまう。助けてくれ」
搾り出すようにそう言って彼はまた気を失った。それは、彼が彼として発した最後の言葉になった。
再び目を覚ました彼は、演じることしかできなくなっていた。今まで演じた膨大な役たちが、彼の全てになった。食事のシーンを演じながら食事をし、訪れた朋友と交わす言葉は社交界のシーンで演じた台詞だった。かつて世界中をとりこにした演技力で語られる彼の言葉は、全て本当に彼自身の言葉のようであったが、その実全て台詞だった。
最初に演じたカメラマンから、医師、刑事、殺人鬼、ヒモ、軍曹、天才、国王、妖精、夫、大統領、デザイナー、乞食。彼は変幻自在に全てになったが、彼自身はついに戻ってくることはなかった。時に彼はかつての彼のように振舞うこともあったが、それもかつて彼がメディアの前で演じた彼自身だった。
彼は演じ続けるまま老いた。しかし彼の演技は全く衰えることがなかった。彼は今でも時に18歳の若者そのものになった。その演技の高みは、おそらく人類が到達したものの頂点であったろう。彼がかわりに失ったものはあまりに大きかったが、彼が代償に得た演技の凄みに、それを見た者は全て震えた。
最後の時が来た。彼は自らの死期を悟ったのか、彼は自分の枕元に、同じく老いた彼の妻を呼んだ。
「今までありがとう。お前に逢えてよかった」
そう言って優しく微笑んで、彼は一粒大きな涙をこぼし、手はゆっくりと力なく落ちた。彼はそのまま帰らぬ人となった。最後のその言葉、最後の所作まで寸分たがわず、かつて彼が演じた男の最後の姿だった。妻の涙は、枯れることなく響いた。
(書き下ろし)