明日を見つめて~野上 薫の告白⑮ | 明日を見つめて-confession:告白-

明日を見つめて~野上 薫の告白⑮

[松田社長] の話はこうだった・・・・・・
カラオケ番組などで美声を 聴かせ、更に関取としての地位もそこそこある紫光嵐関とは何度も面識があり、その度に彼も参加した内容でのコンピレーション・アルバム(企画盤)を出そうという動きを見せていたもののなかなか実現できないままで、また紫光嵐関もあまり乗り気ではなかったらしく話が流れてしまっていた。それでも [松田社長] は諦めずに説得を続けていた・・・・そういった経緯の中で、紫光嵐関から私を推薦するから勘弁してほしいという旨の連絡を受け、私は私でそんな事とは露知らずに今ここでこうして [松田社長] から説明を受けているというのだ。
そして話を全て訊き終えた上で選択を迫られた――――選択肢は2つに1つ。
一つは・・・・このまま部屋を出てこの話は聞かなかったことにする
もう一つは・・・・少しでも興味があり、話を聞くつもりなら<研修生>としてアーティストの仮登録をする


どちらにしても私にとっては分が悪い話でしかないように思った・・・・・・・それでも選択を迫られると言うのはとても息苦しく、重く頭の上に圧し掛かってくるような重圧感を強く感じる。
そして私が出した答えは・・・・・・・後者だった。
私の答えを聞くとすぐに簡単な契約書と注意事項が書かれた用紙を手渡され、その場で読むように促された。その内容には基本的な生活内容のことも含め、かなり事細かく書かれており、読んだ時はとても戸惑ったのを今でも覚えている。それでも一通り読み終えて顔を上げるとすぐに [松田社長] がずっと私の事を見ていてくれていたようで、少し心配そうに 『(契約について)どう?』 と声を掛けてもらった瞬間・・・・社長という地位でもこの優しさを持っているから紫光嵐関は自分の話しを断り続けながらも、別の道で [松田社長] の言葉に応えようと考えたのかも知れない・・・・・・そう思った途端、頭に圧し掛かっていた全ての重石が取れて気持ちよくサインをしてしまった。
―――こうして私の今に繋がる分かれ道の方向が定まり、芸能の世界へと足を踏み入れることになった。


・・・・・研修生としてのアーティスト契約をした翌日に、紫光嵐関からお店に連絡が入った。その時私は仕事がお休みで彼から伝言が残された・・・・《1週間後の午後2時に皇居・和田倉噴水公園で待っている》
カレンダーを見るとちょうど春場所(3月場所)が始まる2週間ほど前で、本格的な場所前稽古に入る前日だった事を会った時に本人の口から聞いた。


そして約束の日。
約束の時間よりも30分ほど早くその場所に着いた・・・・和田倉噴水公園という場所は初めて来たけれど、東京のど真ん中にこんな素敵で静かな場所があるなんて思わなくて、足を踏み入れた途端・・・・・『キレ~~~~』 と声を上げて感動してしまった。皇居の入り口からちょっと突き出した一角に位置し、周りを美しい緑で囲まれ、真ん中に大きな噴水があってそれを眺めながら食事が出来るようにと大きなガラス張りのお洒落なレストランがある。まだ肌寒かったけど、それでも日差しは弱いなりに照っていて、少しコートのボタンを緩めても寒すぎない感じだったので、近くにあるベンチに座ってのんびりと噴水からリズミカルに出てくる水の動きを眺めながら紫光嵐関が来るのを待つことにした。


紫光嵐関は時間通りに現れ、私に気が付くと軽く会釈をして近付いてきた・・・・・さすがにあの大きな身体はどこにいてもとても目立つ。それにある程度名のある力士でもあるので、彼を知る人々が遠目に視線を送り、口々に私たちの事を詮索しているように感じられた。しかしそんな事など気にも留めない様子の紫光嵐関は自然体で私の隣に座り、ゆっくりとした口調で先日の件について話し始めた。


『松田さんからお話を伺いました。とりあえず研修生として登録をされたようで・・・・唐突なお願いで本当に済みません。でもこれで今まで松田社長を困らせていた分をお返しできるはずなので助かります。あなたにはどうお礼を言って良いか。それに正直言いますと、私は相撲取りであって歌を唄う柄ではないので・・・・・・』


簡単な挨拶のような言葉を私に言ってから、遠くを見つめる紫光嵐関の目は何かを決意したような強い眼差しだった。しばらく沈黙が続く中、噴水から吹き上がる飛沫の音だけが私の耳に届いていた・・・・何か思いつめた様な表情をする彼に私は何て言葉を掛けて良いのか分からなかったので、この静かな時間の中から紡ぎ取った彼の次の言葉を待ち続けた。
そして10分近くたった頃にようやく大きな身体を起こして立ち上がり、私の方に振り向いて心が決まったというような表情を見せながら 『少し歩きましょうか?』 と言った。


≪続く≫