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にゃんにゃんクラブ・東方本館

にゃんにゃんクラブ・東方本館は東方及び持病の起立性調節障害を主にさまざまなことを書き記しています^^
ぜひ読んでいってください^^

11月上旬を過ぎてからも今回は復活に時間がかかりました。病院へ行き内科主治医に相談したところ昇圧剤を頂きました。まだ運動が出来る状態ではなかったので血圧を上げるには薬に頼るしかなかったのです。
薬は毎日飲み続けましたがそれでもなかなか回復が見られず11月中旬頃には完璧な単位不足が現れ私は留年になりました。しかしそれでも私は、学校を辞めず少しずつでも出る様に決心したのでした。

たとえ留年でも学校に行き続けるそれが私の気持ちでした。
11月も終わりに近づき私の単位はさらに減っていきました。そんな中でも私は学校に行き単位を減らさないよう努力をしました。

しかし私は休んでばかりで私の気持ちは裏切られていく一方でした。そんな時、父の転勤が再び決まり北海道に帰ることになりました。その時私は、高校をどうするか非常に悩みました。
でも、私は高校にそのまま通うことを決意しネットで高校を探しました。
そんな折、私がネットで調べていたら北海道の単位制高校が見つかり資料を請求することにしました。
資料が届き、それを私は読み来年はここに転入を決めたのでした。

それから、3月まで私は転入のためたった一つ残った単位を修得するために頑張って学校に通いました。

と、ここまでが、FC2で書いていた内容です。次回からは北海道に帰ってきたときの話を考察しながらまた書いていきたいと思います。
再び高校が始まり、私は気を引き締めて出席しまた毎日が始まりました。単位が少し減りつつもまだ持ち直せる範囲、私は何とか進級しようと必死でした。
時間は早く過ぎていき十月が近くなっても私は学校に通い続けました。まだ運動も続けており、その成果が出たのか、毎日とは行かずとも一日中授業に出れるようにもなりました。気分も上向きでこれはもう進級間違いなしと、期待をしていました。


10月に入り始めて間もなく私は好調に学校へ行ってました。授業が分からないこともなく皆と楽しく過ごしておりました。
テストも近づいてましたし勉強にも実に性が出ました。そんな状態がしばらく続きこれはもう高校進級間違えなしと思っていました。微かですが兆しが見えたのです。しかしテスト前にあのようなことが・・・

10月中間テストも間近な頃に体力付けに私は木刀の素振りを行っていました。何回も何回も振っていたのですが、うっかり力が出すぎたせいか振りすぎで遠心力に引っ張られ体が宙に浮き、頭と足を思い切りぶつけたのだった。
すぐ家に入り手当てをし病院に救急外来で受診した。その結果頭に異常はなく足は分からない状況だった。翌日整形にも受診しやはり足ははっきりは分からないが異常はないということになった。
そして、足があまりにも痛いので松葉杖を借りて翌週のテストは何とか受けることが出来た。この頃はまだ学校に行けると思っていたのだが現実は変わっていくのだった。

足を怪我してからも数日、痛みを押してでも私は学校に向かいました。学校には行くのですが足を怪我して少しいける時間が減ってしまったのです。私は無理をしたのかもしれません。しかし私は日々の運動を足の痛みによって行うことが出来ず、それが原因で血圧が下がってしまったのでしょう。長い期間をかけて血圧が下がり11月上旬休み始めたのでした。
おそらくそれが引き金となりぱたりと学校に行けなくなり休み続けたのでした。
日々の学校を通いながら、体育祭が近くなった。体育祭の練習は出ようと頑張っていましたがなかなか出ることは出来ませんでした。
私は凄く焦ってました。なぜなら体育祭の応援でダンスを踊ることになっていたのです。練習しないと踊れないと言うことで出た練習は一回だけ
体育祭が迫りながらも大丈夫なのかと言うことでした^^;

待ちに待ちながらも逃げることの出来ない体育祭はやってきてしまった。私は出ることには決めていたがダンスの振り付けを覚えてないためにまずい状況だった。
しかし、一方では体育祭を楽しみにしていたのでやる気は十分にあった。最初に午前の競技に出ることになった。午前の競技の最中は友に振り付けを教えてもらったが完璧ではなく午後の応援はみんなとダンスが少しずれてしまった。
今年も全部出ることは出来、楽しい体育祭となった。

学校はしっかり行きつつもうまくいかず、そこで私はあることに気づかされたのでした。そう私は学校に行けず体育の授業にも出れなかったため知らず知らずのうちに体力が落ちてしまったのでした。
そこで私は担任の先生に体力付けの相談に乗ってもらうことにしました。なんせ体育の先生なものですから^^相談によって歩くことにしました。それから父にも話したら一緒に歩いてくれるということで、それから毎日一緒に歩くことになりました。

学校は一学期の終わりが近づき夏休みを数えるようになりつつも学校は行けるように行ってました。
そして、気分があまり優れないながらも夏休みに突入、しかし夏休みに入ったとたん一変し元気になってしまいました。夏休みに入っても運動は続け優雅に過ごしました。その夏休みの中で私は高校に入って始めて弱音を吐きました。
「二年半近くも病気に苦しめられ学校にも思うようにいけない状態で学校に行くのはもう疲れた。」
それが本音だったのでしょう。一度はそういったものの再度奮起し学校は続けることにしました。
暫くこのブログもご無沙汰してしまいました。では、久方ぶりに続きを。

ついについにと、高校入学式。体調はそこそこながら、とても緊張しちゃいました≧▽≦。
担任になった先生は体育のO先生、優しい良い先生です。さーて学校が始まり、一日目、体調良くいきなり授業全部出てしまいましたΣ(・д・)二日目も全部、三日目も全部、四日目も・・・・・・
それは二週間続きました。この時私はこのまま普通の高校普通に通えるかもと大喜びでした\(≧▽≦)/

そして二週間全部,出ながら私はバドミントン部に入りました。しかし運動を頑張りすぎてこの時再び、肺が破れてしまいました。
そのとき、ちょうど良くゴールデンウィークが近づいており、そこでしっかり直そうと言うことでした。
時は過ぎ、ゴールデンウィークに入り、それも過ぎ学校が再び始まったときでした。
パタパタと学校に行けなくなり、母に退学して欲しいと泣かれるほどでした。私も心境的に死にました・・・・・・・。

それ以来、再び学校は行けるときに行くという感じでした。しかし二年前とは違い最低四時間は出ることが出来酷すぎると言うことはありませんでした。部活に関しては完璧なる幽霊部員、出ること叶わずといった感じでした。
それでも私は、希望を捨てず絶対進級してやると意気込み出れる限りを尽くしました。

相変わらず出れる限りを尽くしていた私だったが、その反面時期的に体調が優れず休みがちでもあった。そのためか少し単位が減ったんだろう、今のところ危ないものはないが時数を把握しておいた方がいいと先生に言われ、教科ごとの欠席可能時数と欠席時数を教えてもらった。
すこし危機を感じつつも、私はさらに奮起をしたのだ。その先の体育祭のためにも・・・
三年の二月のときでした。ある日父の妹から連絡があり、祖父が不調だから北海道に帰ってきて欲しいと言うことでした。その知らせを受け父は北海道に帰りました。
そのことが心配ながらも私は今までどうりに学校へ行き、父の車を洗ってあげようと楽しく話していたくらいでした。その先のことを予期せず・・・。

父が北海道に帰って数日後のことのある日、その日は朝から元気で今日は確実に学校へ行けると思っていたのだが、突然母に父から電話がかかって来て私は何だろうと?思った。
電話が終わって母が言ったのは、祖父が危篤で今日が峠と言われた。
それを聞いたとたんだった、まるで青菜に塩で自分が沈んでいくのが分かった。心境的には自分に核ミサイルが10発当たった気分だった。翌日に北海道に行く予定になり、結局その日学校は行けず翌日の準備に取り掛かった。

北海道へ帰る日当日、あまり気分のいいものではなかった。何せ昨日の昼祖父が亡くなってしまったのだから(あくまで2006年二月の事です。)
Sフェリーの乗り場までやってきたのだが気持ちが悪く行けない状況だった。そのため、一度は父に家に帰ると電話したほどだった。しかし、何とかいく決心をし新潟を私は発った。
船に乗ったあとは少し調子がよく辛くてしょうがないことはなかった。しばしの間は船旅を楽しみ北海道へ私は向かった。

船で一日過ごし着いた苫小牧東港、時間は朝の5時半眠たいがらもバスに乗り苫小牧駅に向かい着いたのはいいがなんと目の前で急行電車が行ってしまった。そのため寒いところで一時間ほど待つ羽目になった。
そして、やっとのことで電車に乗り札幌につくことが出来叔母の家に向かった。叔母の家にはすでにたくさんの親戚が集まっておりいろんな話をしていた。
私は、泣きそうになりながら祖父の顔を眺め話に加わった。

夕方まで話を続け、胸がキュッと苦しいながらも母方の祖父の家に行くことになった。しかし、着いてから夕食を頂いたのはいいのだが祖父母は私が起立性調節障害のことを知らずにいた。なぜなら心配させたくなかったからだ。でも結局そのことを知られすべてを話した。
その日は、祖父母と遊んで過ごし、私は床についた。
翌日を通夜に控え、通夜に出席できるかどうかの体調を心配しながらも私には寝ることしか出来なかった。

通夜当日の朝も気分のいいものではなかった。顔を洗い、歯を磨き、朝食をとり、ごく普通の朝だったが、気分は憂鬱だった。

通夜は夕方から行われる、そのために午前中はのん気にゲームをして過ごした。そのほうが気が紛れたからだ。一種の逃げかもしれないが・・・
時間はあっという間に過ぎ、午後二時ごろには父方の叔母の家に向かった。到着したのは三時ごろだっただろうか?改めて祖父と対面し葬式会場の係りの人が来る四時まで待った。その際に少しいいことを聞いた。

なんと従姉弟が来るというのだ^^。私はとても楽しみにしていた。
・・・一時間後・・・
係りの人がやってきて、祖父を運んでいった。私たちもそれについて行き葬式会場についたのは・・・たしか、四時半~五時だっただろうか、まあいずれにせよそれぐらいの時間に着いたのだった。

翌日、その日はお葬式でした。たくさんのお経をあげ、涙を流し、最後のお別れをしながら、火葬場へ行き、祖父を荼毘にふしました。
悲しみによるストレスは終わりました。ですが、従姉弟に会ったことはそのストレスの緩和になったんだと思います。
三年生の運動会、念願の運動会でした。
二年のとき、気分が悪く開会式とラジオ体操出ただけで残りは見学し午前中が終わらぬうちに帰ってしまいました。
しかし昨年は調子がよく、午前中頑張って、昼食をとり、午後も最後まで出ることが出来ました。終わったときはとても嬉しかったです。

2005年で中学二度目の文化祭、今年こそ合唱コンクール出るぞと力を入れていたら肺に穴が開いた・・・えぇぇぇぇーΣ(’□’)と自分でも驚き、それが原因でコンクールは見学、今年こそはと思ってたのに(TT)
ですが全部出ることはできました。お昼休みに友人とお昼を楽しく食べそのあとに校内を回ってこれもいい思い出です^^

そして、冬休みもこの年はかなり体調がよかったです。夏休みよりもよく夏休み以上に快適に過ごしていました。しかし冬休み中にテストがあったのですが、それが終わってからでした急に体調が悪くなりそれが冬休みが終わってもよくなりませんでした。その年高校入試を控えていたので駄目なら通信制に行こうという考えでした。
あんなによかったのになぜ悪くなってしまったのでしょう。原因は入試にあったんだと思います。いずれにせよそれ以来また学校にあまり行けなくなってしまいました。

冬休みに体調を崩して以来一向に回復することはなく、高校入試が危うくなり、どうしようかと思いました。全日制の普通の高校に行きたいと言うのが私の目標で三者面談の際に先生に相談してみました。

先生は大丈夫だと言ってくれました。後は入試だけ・・・
入試当日のために強い吐き気止めを準備して入試を受けることになり、入試当日辛い体調を押して入試に臨みました。あまり感じは良くなく自信がとてもありませんでした・・・。

入試が終わり開放された翌日、その日は卒業式でした。
朝からもやもやした気分で歩く登校路、空気は気持ちよかったですがすがすがしい気分にはなれませんでした。
卒業式のため、入試のときと同じ吐き気止めを使い、教室で友と試験のことを語り合い、卒業式に臨みました。
薬のおかげか無事終えることができ帰宅路二人の友を連れ自分の家に来て記念写真を撮りました。いつ北海道に帰ってしまうか分かりませんし^^しかし試験が終わってからは結果発表までが一年のように長かったです・・・。

入試結果発表当日朝からとてもそわそわしていました。合格発表が張り出されるのは一時で必要な持ち物を準備したつもりだったのですが・・・なんと上靴を忘れてしまい、バス停から急いで取りに行きました。そのときあまりに急いでいたので車が危ない状況でした。親を心配させたのはいけないことだったのだと思います;;

なんとか、上靴を持ってきてバスに乗りR高校の合格発表に間に合いました。
さて、着いてからはドキドキで自分の番号があるかどうか探しました。ゆっくり探しているとありました。^^見事合格ひやひやでした。二、三人落ちたらしくその人達は可哀相だと思います。
番号確認後、中に入って契約用紙を貰い、制服の採寸を行いました。合格発表を終えてからでしょうか、体調がすこぶるよくなり今回の体調不良の原因は入試によるストレスだということが分かりました。