ボクは佛教大学の大学院で化粧を研究し、今は下関にある東亜大学というところで准教授を務めています。こうきくと、みなさんはいろいろと考えるでしょう。「なぜ、お寺さんの大学で化粧の研究なんだろう」とか、そもそも「化粧なんて大学で研究して、学生に教えるものではないだろう」とか。

 

ボクが専門にしているのは、化粧心理学や化粧文化論です。なにを研究するかといえば、ひとが化粧をするのはどういう理由からなのかとか、化粧をすることで、ひとはどう変わるのかとか、そもそも化粧とはなんなのかということがテーマです。

 

化粧品開発にまつわる化学以外に、大学で化粧を研究しているひとは世界的にもほとんどいません。なので、ボクの指導教授は理解を示してくれましたが、博士の学位授与をボクに認めるかどうかで、「化粧なんて研究する価値があるのか」と佛教大学は大いに揉めたそうです。

 

大学院生の頃、ボクの両親は近所の人に「息子さん、大学院でなにを研究してはるん?」と聞かれたら、化粧と答えるのが恥ずかしくて、答えをはぐらかしていました。同じ頃、弟は数学を大学院で研究していたのですが、それは堂々と答えていたようです。

 

化粧が研究の対象とされてこなかったのには、いくつか理由があります。一つは、化粧を施す部分が「顔」だからです。化粧を研究しているとはいえ、化粧をする部分が顔であることから「結局は、美醜をテーマに研究しているのではないか」と、研究や研究者じしんが社会的な批判を受ける可能性があります。ようは、美人について研究しているんだろうとおもわれてしまうわけです。そのため、ボクの両親も近所の人に答えづらく、大学も博士の学位をボクにあげていいか揉めたわけです。

 

また、一般的には「化粧は、大人の女性だけがするものだ」と考えられています。大人の女性だけがするものを研究しても、得られる結果は限定的なものだから意味がないとおもわれたわけです。そして、化粧は一過性のファッションで、無駄で不要なものとも考えられています。ですが、はたして本当にそうなのでしょうか。

 

 

化粧は、化粧品を使っておこなう行動です。私たちは「化粧品ってなに?」と聞かれたら、ファンデーションやマスカラ、口紅などと答えるでしょう。もちろん、正解です。ですが、それだけではありません。

 

日本には、「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」というのがあります。昔は「薬事法」という法律でした。この法律のなかで、化粧品とはなにかということが定義されています。それによると、ひとの身体を清潔にし、美化し、魅力を増し、容貌を変え、または皮膚もしくは毛髪を健やかに保つことを目的に使用するものが化粧品とされています。

 

つまり法律上、化粧とは外見を変えたり、美しく飾ったりすることだけではなく、清潔にすることも含まれています。なので、朝起きて顔を洗うこと、寝ぐせの髪を整えること、歯を磨く ことだって立派な化粧なんです。そう考えると、化粧とは必ずしも大人の女性だけではなく、老若男女を問わずおこなうものなんです。

 

わたしたちは化粧というと、「化けて粧う」という漢字から、本当の自分を化粧によって欺いていると考えてしまいがちです。ですが、本来の意味は、身だしなみであり、素顔のままでは外からは見ることのできない本当の自分を表現する方法が化粧です。

 

「化けて粧う」という漢字は、化粧がその昔「けわい」といわれたのにあてています。「けわい」とは、気配のこと。化粧をするひとの外見にあらわれない本質を、それとなく表現する手段を意味します。他にも「おつくり」「みじまい」などともいわれていました。「おつくり」とは、カタチをつくるということ。なにをつくるかといえば、もちろん顔です。わたしたちの顔は素顔では不完全で、化粧をして初めて本当の顔になるんです。「みじまい」とは、身仕舞い。つまり、身だしなみです。化粧をしないことは、身だしなみができていないことであり、素顔で人前にでることは失礼だと考えられていました。

 

化粧は、化粧をするひとの外見を変えます。ですが、化粧による外見の変化は、それを見る他人だけではなく、外見を変えたひとじしんのココロにも作用します。

 

化粧をおこなう意味は小さくありません。にもかかわらず、わたしたちは化粧があまりに日常的に身近にありすぎて、それを考えることがありませんでした。ですが、化粧はいうまでもなく、ひとがひととして、またひとと関わって生きていくためには必要不可欠なものです。

 

化粧による外見の変化が、どう他人に影響し、また化粧をしたひとじしんに影響するのか、一緒に考えていきましょう。