髪を飾る装飾品には、櫛、簪などがあります。櫛は、髪を梳るための道具ですよね。それが、江戸時代中期以降、飾りとして用いられるようになります。

 

素材も、象牙や鼈甲(べっこう)などのような高価なものもあり、蒔絵が施されたりもしました。櫛は、じつは『古事記』にすでにみることができ、その制作は延喜式にもしるされているくらい古いものです。もともとは、髪を梳るために用いられていましたが、次第に装飾となっていきます。

 

天和貞享期(1681年~1687年)になると、高価な鼈甲櫛が庶民のあいだで流行します。すると、一枚の櫛をさすだけでは飽きたらず、享保期(1716年~1736年)になると遊女のあいだでは、櫛を二枚、三枚とさすことが流行しまた。しかし枚数が多いだけでは、飽き足らなくなっていきます。

 

もともとの櫛は、小ぶりなものが主流でした。それが貞享3(1686)年に刊行された井原西鶴の『好色一代女』では、遊女のさす櫛が、まな板のようだと描写されています。ある程度は誇張だとしても、実際にかなりの大きさの櫛が用いられていました。

 

櫛が大きくなったからでしょうか。次第にその値段も高価となっていきます。享保期(1716年~1736年)には、櫛の価格は5~7両だったといわれています。しかし、それは普通のもので、良い櫛は20~30両にもなったというんです。

 

宝暦6(1756)年に刊行された、医者や物持ちの不心得をなじり、今の粋を批判して大野暮の必要を説き、あるいは茶人の数奇好みや談義坊主のいかがわしさから、遊客遊女のもつべき心得までを説いた『風俗八色談』では、遊女の頭は「蟹の足」のようだと表現されています。

 

これは、笄をはじめとする髪飾りが頭からでて、蟹の足のようにみえたからです。つまり、おびただしい装飾品によって髪が飾られていたことを意味している。

 

髷は技巧的になり、華美な飾りで装飾されました。経済的に貧しい者ですら、髪を自分で結うことなく、女髪結をよんで、派手な髪形にしたんです。そして、庶民の髪が遊女や歌舞伎役者のように結われ、髪や衣服が華美になり風紀を乱すようになります。時代は、寛政の改革のまっただなか。幕府が女髪結を禁じる触をだすくらい、歯止めがきかなくなっていたんです。