元禄期(1688年~1704年)の、遊郭の話題や風俗などを実在の人物に取材して描いた山東京伝(さんとう きょうでん)の『通言総籬(つうげんそうまがき)』には、遊女の髪が日用品や化粧品などのこまごましたものを売る「小間物屋の店のようだ」としるされています。これは、おびただしい装飾品によって飾られていた髪を、なかば揶揄(やゆ)しているわけです。

 

多様な髷が結われるようになるにつれ、それを装飾するために、いろいろな飾りが使われたことを、「小間物屋」と山東京伝は表現しました。一体、どのようなものが使われたのでしょうか。

 

 

 

まずは、髪を固めたり乱れを防いだりするのに用いる「髪油」からみていきましょう。頭皮を清潔にし、髪の艶色を保つために、髪油は用いられました。

 

この髪油には、モクレン科の蔓性 (つるせい) の常緑低木である実葛(さねかずら)の茎の粘液が使われていました。ほかにも、椿(つばき)、フトモモ科の常緑高木である丁子(ちょうじ=いまでいうクローブ)、胡桃(くるみ)、胡麻の種子である胡麻子(ごまし)、菜種の種子である菜種子(なたねし)などの植物油が使われていました。植物以外にも、動物油や魚油も用いられることもありました。

 

そんな髪油に、伽羅油(きゃらあぶら)とよばれるものがあります。『我衣』の作者である曳尾庵(えびあん)が、幼年の頃に古老から聞いた話として、伽羅油の起源がしるされている。具体的には、井伊掃部頭内安東長三郎(いいかもんのかみあんどうちょうざぶろう)が、戦で木村重成(きむらしげなり)を討ち取ったあとにおこなわれた首実検のおり、木村重成の髪に伽羅を胡麻油に煎じたものを塗ったことがはじまりだといいます。

 

首実検とは、戦場で討ち取った敵の首を、たしかにその者の首かどうか調べることですが、それにもちゃんと作法がありました。具体的には、髪は普通よりも高く結い上げ、髪を結うときには水をつけ、右から櫛をつかい、櫛のみねで立て、元結を櫛で四度たたいて結いおさめたとされています。討ち取られた首の髪を、櫛のみねでたたいたことから、年配の人たちのあいだでは、風習としてみねを髪にあてることを忌み嫌われているひとがけっこういます。