さて、遊女にとって自分で自分の髪が結えないことは、文字が書けないことと同じくらい無教養とされていました。

 

女形の鬘付(かつらづけ)が、贔屓にしていた遊女の髪を、役者のように結ってやったところ、あまりにも見事だったので、遊女の仲間も金銭を支払って自分の髪も結わせたことが、女性の髪を結う仕事しての髪結いの誕生であることもお話ししました。腕のいい髪結は評判となり、遊女たちから人気を得ていました。

 

ですが、一般の女性が髪結をよんで髪を結わせたりしたら、遊女だ、茶屋者だ、贅沢だとして非難の的になりました。ですが、いつの時代も美を求めるのが女心です。

 

一般の女性が髪結をよんで髪を結わせたりしたら、贅沢だといわれるのは、髪を結ってもらう費用が安くないことを意味していいます。では一体、髪結をよぶ費用はどれくらいだったのでしょうか。安永3(1774)年に刊行された洒落本(しゃれぼん)の『当世気とり草』(とうせいきどりぐさ)には、結髪の価格が数百文におよんでいたことがしるされています。寛政天保期(1789年~1843年)の風俗をまとめた『寛天見聞記』(かんてんけんぶんき)によると、結髪の値段は100文でした。ですが、そこは市場経済。髪結が乱立してくると、その価格は下落していきました。

 

文化10(1813)年に刊行された式亭三馬の滑稽本『浮世床』では、結髪の値段は32文となっています。この頃の下女(=召使いの女性)の給金が、日当50文だったといわれています。イチ西一生懸命働いてもらう給与と髪結の金額が同じなんです。かりに月収が20万円の人だと、単純計算で30で割ると一日7,000円ですよね。まぁ、今の美容室でもそれくらいかかるので、そう思うと江戸時代の女性たちの気持ちは、今の時代に生きる女性たちでもそう想像に難くないかも知れません。なお、髪結の費用は最も安くて16文まで下がります。

 

ある程度無理をすれば、庶民でも髪結を使える範囲の価格まで下落します。すると、薄利多売でないともうけがでないため、髪結たちは多忙を極めました。式亭三馬の「浮世床」をみてみると、仕事が忙しくなりすぎ、痔になる者や腰痛を患う者もでてきたらしいことがわかります。このあたりも今の美容師さんたちと共通する悩みです。価格の下落にともない、髪結の需要は増える一方という状況が変わることはありませんでした。

 

流行の髷をすることで、少しでも他人より美しくなりたいというおもいが、女性にはあります。結果として、それが髷を華美とさせていきました。