一柳満喜子(以下 満喜子)は 明治 大正 昭和を生きたクリスチャンであり 教育者である

特に 幼児のために 多くの実践をおこなった

満喜子によって設立された学校は 今日も保育所 幼稚園 小学校 中学校 高等学校までも有する近江兄弟社学園として存続している

満喜子による教育事業について 夫の一柳米来留(William Merrell Vories:以下,メレル)は次のように語る

教育事業は 満喜子の創意にかかるものであった

満喜子は新しい方法を紹介し 生徒ばかりではなく 教師も訓練の対象としている

メレルは 1905年に滋賀県立商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高等学校)の英語教師として来日して以降 彼とその教え子である吉田悦蔵 村田幸一郎とともに近江ミッション(現在の近江兄弟社)を設立し 建築家 伝道家 実業家として活躍した

その近江兄弟社での教育事業の中心を担っていたのは メレルではなく満喜子であった


しかしながら これまでメレルに関する研究は数多く行われてきたものの 満喜子についての研究はほとんどない

満喜子は 自らすすんでものを書くということをせず 依頼による講演や執筆が多く 満喜子を知る史料はほとんど残っていない

断片的ではあるものの 学校通信などの満喜子による文章の一部が1959年と1972年に文集としてまとめられているが 多くが未整理あるいは行方不明となっている

また 華族出身でありながら 満喜子に関する公文書の一切が宮内庁や霞会館に現存していない

さらに 一柳家の系譜がまとめられている『一柳家史紀要』にも 満喜子の名前は登場しない 

伝記に類するものとしては 満喜子自身の手による『教育随想』所収の「辿り来し道をふりかえりて」やグレイス・フレッチャー(Grace Nies Fletcher)のThe bridge of Love(アメリカでの書名 イギリスではLove is the Bridge)がある

「辿り来し道をふりかえりて」は 満喜子が自分自身について語った唯一の文章である

また The Bridge of Loveは ボストンのジャーナリスであつたグレイス・フレッチャーが1966年4月5日に来日 約一ヶ月にわたり一柳邸に滞在し満喜子本人からの直接取材を含めて関係者からメレルと満喜子について取材し 執筆されている

グレイス・フレッチャーが執筆に取り組むこととなったのは 1965年に満喜子が渡米し 11月16日にニューヨークの出版社E.P.Dutton & Co.,INCを訪れた際「メレルの生涯は誰かに書かせ 広く読ませねばならない」と出版社がグレイス・フレッチャーを満喜子に紹介したことによる



戦前 満喜子に接していた吉田悦蔵はその著書『近江の兄弟ヴォーリズ等』のなかで 満喜子について何も書き残していない

満喜子についての研究報告は 佐野安仁の「一柳満喜子の教育観」 石井紀子の「Constructing Christian Brotherhood: Makiko Hitotsuyanagi Vories and Her American Mentors」 奥村直彦の「ヴォーリズ夫妻の教育思想と「近江ミッション」教育事業の展開」のみである

佐野安仁は『教育随想』を史料に満喜子の教育観を論じ 石井紀子は日米女性文化交流の立場から満喜子とメレルの国際結婚を題材にキリスト教とジェンダーについてまとめ 奥村直彦は主としてメレルに関心を置きながら The Bridge of Loveを史料にヴォーリズとの関係のなかで部分的に満喜子を取り上げる程度である

ゆえに いずれも満喜子に関する総合的な研究とはいいがたい

このように 研究がほとんどおこなわれてこなかったこともあって 満喜子については なお不明な点が多い



賀川豊彦は満喜子について「聡明」とだけ記し 詳しくは語らなかった

満喜子に関する研究は たんに一人の女性の生涯を検証するにとどまるものではない

近江ミッションにおける教育事業はもちろんのこと メレルの人的交流における満喜子の役割など これまでのメレル研究では検討されてこなかった領域における新たな知見の提供が可能となる

一般的には メレルが日本の建築や戦後の天皇制に影響を与えたといわれている

しかしながら メレルの事業を人的にも経済的にも支えていたのは 満喜子にほかならない

その意味において 満喜子について検討をおこなうことは重要である

そこで 本研究では満喜子の生涯について 特に彼女が近江兄弟社で担った教育事業に焦点を当てて概観し 満喜子研究だけではなく新たなメレル研究への萌芽としたい

【資料】
平松隆円 2008 日本研究,国際日本文化研究センター(編),角川学芸出版,第37号,pp.201-245




The Bridge of Love: The Story of a Marriage Than Inspired a Country
メレル・ヴォーリズと一柳満喜子

著者: Grace Nies Fletcher,監訳: 平松隆円



日本人の華族令嬢とカンザス生まれの貧しい青年の運命的な出遭い

異端の結婚

数々の逆境を乗り越え 近江八幡でのミッションを通し世界との「愛の架け橋」になろうとしたキリスト者夫妻の愛の生涯を描くノンフィクション

本書は、ボストンのジャーナリストGrace Nies Fletcherが1966年に来日し約1ヶ月にわたり、一柳満喜子本人を含めて関係者から取材し執筆したThe Bridge of Love: The Story of a Marriage Than Inspired a Country(E.P. Dutton and Co, Inc., 1967) の訳書であり 平松隆円が監訳を務めました

【共訳者】
・増田翼
 (仁愛女子短期大学・講師)
・辻友子
 (近江兄弟社学園・教員 / 元近江八幡市教育長)
・姜鶯燕
 (京都西山短期大学・非常勤講師 / 国際日本文化研究センター・技術補佐員)
・北後佐知子
 (佛教大学大学院教育学研究科博士後期課程・院生)


メレル・ヴォーリズ 1880年~1964年
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)は、キリスト教伝道のため1905年に来日しました。東京YMCA同盟から、外国人教師を求めていた滋賀県立商業学校(滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として派遣されたメレルは、バイブルクラスを開き生徒たちにキリスト教を教えました。残念ながら、様々な問題により英語教師の職を解雇されますが、全国で教会や学校、ホテルなど1600件にものぼる建物を設計する建築家として日本に留まりました。代表的なものに、明治学院大学、同志社大学、関西学院大学などがあります。その活動分野は建築にとどまらず、サナトリアムやメンソレータム(メンターム)などの医療、近江ミッション(近江兄弟社)などの社会事業までおよびます。また1941年、日本国籍を取得。太平洋戦争終戦後は、ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されています。


一柳満喜子 1884年~1969年
播磨小野藩主一柳末徳子爵の娘として生まれ、神戸女学院や米国ブリンマーカレッジで学びました。そして、津田梅子の後継として女子英学塾に請われるものの固辞し、1919年にメレルと結婚します。当時、外国人と子爵令嬢の結婚は難しく、兄恵三の義母である広岡浅子(三井高益の娘)の助けのもと、なんとか結婚することができました。結婚後、満喜子は「三つ子の魂百まで」の思いのもと、3歳児からの3年保育の清友園幼稚園を開きました。そして、イエス・キリストの教えをもとに豊かな人間性を育み、国際的視野を身につけ、一人ひとりの個性を大切に伸ばすことを目標に現在の近江兄弟社学園の礎となる各種学校を開きます。また戦時中は、軽井沢幼稚園や啓明学園などの教育にも関係しました。





A5判 上製
予価:2,835円
ISBN978-4-88065-246-7 C0023
奥付の初版発行年月:2010年11月

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20101212 毎日新聞朝刊(京都版)

2010年12月12日 毎日新聞


20101214 日本経済新聞

2010年12月14日 日本経済新聞


20101219 京都新聞

2010年12月19日 京都新聞