★イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコによる福音書 12:17)

 イエスが活動していた時代、祖国ユダヤの国は、ユダヤ教の指導者たちが率いていましたが、ローマ帝国の支配下にありました。そういった中、ローマ帝国に上納する人頭税は大きな屈辱のひとつでしたが、それについては、ユダヤ教の指導者たちの中でも意見が分かれていました。あくまでも律法を守ろうと考えていたファリサイ派の人たちは、納税に反対でしたが、表だった主張はしていませんでした。現実路線のヘロデ派の人たちは、ローマ帝国と妥協するため、納税を支持していました。
 そんな状況の中、ファリサイ派やヘロデ派の人たちがイエスのところに来て、「皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか、かなっていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と尋ねたのは、明らかなワナでした。もし、イエスが納税を認めれば、「律法を軽視している」として、ファリサイ派からの攻撃の材料になってしまいます。納税を否定すれば、ヘロデ派とローマ帝国に攻撃の材料を与えてしまいます。イエスがどう答えたとしても、窮地に陥れられるという、実に巧妙なワナだったのです。

 それに対するイエスの答えが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」でした。ファリサイ派とヘロデ派、どちらにも口実を与えない意外な答えに、イエスを追い詰めたと思い込んでいた人々は、ぎゃふんと打ちのめされたことでしょう。実に痛快なお話と言えます。しかし、単なる痛快なお話と捉えるだけでいいのだろうか?というのが、今回のテーマです。
 聖書を読むとき、自分がどの立場に立つかによって、まったく読み方が変わってきます。「自分は、いつもイエスの教えに従っている。ファリサイ派やヘロデ派のような変な考え方はしていない」と思っている人にとっては、痛快なお話でしょう。しかし、ふだんから、「内なるファリサイ派」や「内なるヘロデ派」が気になっている人にとって、イエスの言葉は、自分に向けられた問いだと感じられることでしょう。

 私たちは、神の言葉に従いたいという願いを持ちながらも、この世で生きていかなければなりません。「天の論理」と「地の論理」のはざまで、ゆれながら生きていくしかない私たちの姿は、きっと、あるときはファリサイ派、あるときはヘロデ派のようだと思うのです。
 神様は、なぜ葛藤の中で生きていくしかないような世界を、私たちに用意なさったのか。それはきっと、「葛藤の苦しみの中でしか見つからない、恵みがある」からなのだと思います。

 「皇帝のものは皇帝に」と言うときイエスは、「この世で、従うしかないものには、従ってもよいのだよ」と、地の論理に服従しながら生きていかざるを得ない私たちの弱さを、赦してくださっているような気がします。しかしその一方で、「神のものは神に返しなさい」という言葉の意味を、深く受け取ることが強調されているのではないでしょうか。
 「神のもの」とは、神様からいただいたもの、神様からの恵みだと思います。恵みとは、ひとりひとりに与えられている賜物と試練だと、私は考えています。その人にしか歩けない「物語」があります。その人にしかできない「戦い」があります。その人にしか担えない「役割」があります。「神様に返す」ということは、「神様から与えられたこの人生を、神の国の実現のために役立てる」ということだと思います。地の論理に翻弄されながらも、神様の愛の内に生きているか、それを日々、自分に問いかけていくことが、「神様に返す」ということのひとつではないでしょうか。

 でも、どう考えても、一生かかっても返しきれるはずもなく、結局は、神様への巨額の借金で終わる人生なのだとも思いますが。