★そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコによる福音書 11:22~24)

 「信じる者は救われる」という言葉があります。でも、「これって本当かな?」「よくある、宗教の宣伝文句じゃない?」、という感じがしますよね。今日は、そのあたりを考えていきたいと思います。

 まず、ひとつのもやもやは、この言葉が、「信じる者は救われるけど、信じない者は地獄に落ちるぞ」みたいな、オドカシのように感じられることです。神様は、「この人は救ってあげる。けれど、あの人は救ってあげない」と差別をするのでしょうか? 聖書の別の箇所では、「どんな罪人でも救われる」と書かれていますが、「信じない」という罪だけは、許されないのでしょうか?
 
 さらに、信じる・信じない以前の、もっと大きな疑問は「そもそも、神様なんて本当にいるの?」ということだと思います。「本当に神様がいると証明してくれるのなら、信じるけど」と思う人も多いのではないでしょうか。私も長年、同じような疑問を持ち続けてきました。そんな私に、ひとつのヒントを与えてくれたのが、「存在が世界を規定しているのではなく、言語が世界を規定している」というソシュール言語学の考え方でした。
 つまり、まず最初に「神様はいるのか・いないのか」という選択があり、それによって「信じるか・信じないか」が決定される、ということではないのです。そうではなく、最初に「信じるか・信じないか」という選択があり、それによって「神様は存在するのか・しないのか」が決定される、ということです。もう少し簡単に言えば、「神様はいると信じる人の目には、神様は見えるし、神様はいないと思っている人の目には、神様は見えない」ということです。さらに言うと、「神様はいると信じる人にとっては、神様は存在するし、神様はいないと思っているにとっては、神様は存在しない」ということです。

 ちょっとややこしい話になって、すみません。でも、人間を超える存在について、あれこれ想像していこうとすると、どうしても、日常的・常識的な考え方のワクを越えていくような視点が必要になってくると思うのです。
 同じことを、もっとシンプルな表現で庶民に伝えていたのが、法然や親鸞でした。「救われるためには、ただ、『南無阿弥陀仏』(ナムアミダブツ)と称えればいい。そうすると、たちまち、阿弥陀仏が目の前に現れ、救ってくれる」という教えです。阿弥陀仏といえども、その人が「南無阿弥陀仏」と称えない限りは、目の前に現れることができないのだそうです(阿満利麿『歎異抄にであう』(NHK出版)より)。ここでも、「信じる→存在する」という順番が語られています。

 ただ、批判的な考え方がすっかり身についている現代人にとって、「信じる」ということは、とても難しいことかもしれません。「信じたいけど、つい疑いの心が出てきてしまう。こんな自分には、神様は現れてくれないのか」と思うと、がっかりしてしまいます。でも、だいじょうぶ。法然は、「疑いながらも念仏すれば、往生す」と教えています(前掲書)。つまり、「疑いの心があっても、『南無阿弥陀仏』を称えていれば、救われる」というのです。
 つい疑いの心を持ってしまう人間の弱さを、神様(阿弥陀仏)はよくご存じなのでしょう。そして、自分自身の猜疑心に苦しむ人間に対して、「だいじょうぶ。疑いの心があっても、あなたを助けるよ」と言ってくれるのでしょう。それが、「赦し」ということなのだと思います。

 そう考えると、「神様への道」の入り口は、「救われたい」「信じたい」という気持ちだと言えます。毎日、なに不自由なく暮らしていて、「べつに、救いなんかいらない」と思っている「幸せ」な人は神様には会えません。「神様への道」の入り口への入り口は、「苦難に出会う」ということかもしれません。
 私たちは苦難に出会って、自分自身の欠点・弱さ・無力を思い知ります。「自力」の限界を痛感して人生に行きづまったとき、初めて「他力」へのまなざしを持てるのでしょう。
 神様との出会いではなく、人との出会いによって、困難を乗り越える人もいます。しかしそこでも、陰で働く神様の力に気づいていたなら、人生をより立体的に見ていくことができるのではないでしょうか。「神のような人に助けられた」という人間の神格化は、しばしば危険な落とし穴になりますから。

 それでは、苦労のない平穏な人生を送り、神様を必要とせず一生を終わる人は、幸せなのでしょうか。幸せか否か、人によって感じ方は違うと思います。私としては、「なるべく苦労のない人生を歩みたい」という気持ちもあり、「ドラマのない人生なんてつまらない」という気持ちもあり、ですが…。
 私のこれまでの人生を振り返ってみると、途中までは、とても恵まれた人生だったと思います。ですから、神様の助けは必要ないと思っていました。でも神様は、「あなたの人生、本当にそれでいいの?」「あなたがこの世で担うべき役割、あなたらしい本来の生き方を見失っていない?」と思いながら、私を見守っていてくれたのでしょう。そして人生の後半になって、「苦難」をプレゼントしてくれました。そのおかげで、神様の助けを借りるしかない流れに追い込まれたのです(追い込んでいただいたのです)。
 さきほど、「阿弥陀仏といえども、その人が『南無阿弥陀仏』と称えない限りは、目の前に現れることができない」という考えを紹介しました。でも、神様(阿弥陀仏)は、その人に「苦難」というプレゼントをすることによって、神様への道へ誘ってくれようとする、ということはあるのではないでしょうか。
 今の私は、本当に神様に感謝しています。毎日、「これが自分が送りたかった人生だ」という実感の中で、神様からのプレゼントにどう応えていくかを模索していくことが、楽しくてたまりません。「苦労のない人生」と、「自分らしく生きる人生」は違うのだなと、感謝のうちに日々実感しています。
 信じる者は救われます。でも、信じない者も、結局は救われる。そう祈りたいです。私がそうだったように。