★ イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコによる福音書10:51~52)

 聖書には、イエスが行った、たくさんの奇跡が記述されています。それらについて、「非科学的な奇跡を信じてしまうところに、宗教の危険性がある」と批判する方がいらっしゃいますが…。
 たとえば、数学上の大発見である「虚数」や「非ユークリッド幾何学」などは、最初は「無意味な空想に過ぎない」と、多くの数学者から無視された歴史があります。また、アインシュタインの相対性理論や、「重力によって時間と空間に歪みが生じる」という大発見も、後年、実証実験が確立するまでは、疑問視する科学者が多くいたそうです。科学が発展すればするほど、科学では解明できない大きな闇が広がっていることがわかってきたのです。なので多くの科学者は、「イエスの奇跡は、現在の科学では証明されていないが、科学的に否定されたということでもない。現時点で言えることは、イエスの奇跡は、科学的には肯定も否定もされていないということだけだ」と答えることでしょう。これが真に「科学的な態度」だと言えます。アインシュタインも、「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」という言葉を残したそうです。

 「聖書が描く奇跡は事実か? 創作か?」というのも、不毛な議論なのではないでしょうか。1冊の本を読んで、「生きる勇気を得た」「人生の真実が見えた気がした」ということってありますよね。そんなとき、その本は、ノンフィクションの本である場合もあるし、物語(作者の創作)である場合もあります。どちらの種類の本であるかは、あまり関係がないと思うのです。

 上記の聖書の箇所では、イエスによって、盲人の視力が回復した出来事が語られています。この部分を、先日の牧師さんの説教では、前の2つの出来事との比較でお話しされていて、とても興味深かったです。私なりの解釈を交えて、お伝えしたいと思います。

 新共同訳聖書では、「金持ちの男」(マルコ10:17~31)と題された話と、「ヤコブとヨハネの願い」(マルコ10:35~45)という話が、この部分より先に登場します。金持ちの男は、永遠の命の入手方法をイエスに尋ね、退けられます。ヤコブとヨハネは、栄光の座に着いたイエスの左右の座を願い、やはり退けられます。ところが、盲人バルティマイの願いは叶えられました。
 バルティマイの願いは、なぜ叶えられたのでしょう。ひとつには、「永遠の命」や「左右の座」という願いより、「目が見えるように」という望みの方が、切実だったということがあるでしょう。この場合、「目が見えるようになる」ということは、視力を回復するという意味以上に、「真実に気づく」ということを象徴しているのではないでしょうか。「目を覚ます」という表現が、聖書のあちらこちらで見つかります。これは、「神様の方にしっかりと目を向ける」ということを意味するのでしょう。つまり、「永遠の命」や「左右の座」よりも、「目が見えるようになる」ということのほうが、信仰の本質に立脚した大切な願いなので聞きとどけられた、ということがあるのかもしれません。

 しかし、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉は、「目が見えるようになりたいというあなたの願いは、信仰的に素晴らしいものだ。だから、あなたは救われたのだ」ということだけを意味するのでしょうか? 
 私は、この箇所の前に書かれている、バルティマイが最初にイエスにかけた言葉、「わたしを憐れんでください」という言葉こそが、重要なポイントなのではないかと思いました。「憐れんでください」という言葉は、自分の欠けや弱さに気づいているからこそ発することができる言葉です。
 しかし、「永遠の命」を願った金持ちの男は、すべての財産を失うかもしれないときに沸き起こる恐怖(人間としての弱さ)に気づき、イエスに懺悔することはしませんでした。ヤコブとヨハネは、「左右の座」という自らの私利私欲(これもまた、人間としての弱さ)に気づき、「憐れんでください」とわが身をイエスに差し出すことはしませんでした。
 自らの欠けや弱さを見つめ、情けないわが身を、主に向かって差し出すことこそが、「悔い改め」という信仰の本質であり、それが、イエスをして「あなたの信仰があなたを救った」と言わしめたのだと思います。