★イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書10:21)

 ある金持ちの人が、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのですか?」とイエスに尋ねました。それに対する答えが上記の言葉です。これを聞いたその人は、気を落として、悲しみながら去っていきました。
 この箇所を読むと、高額な財産の寄付を勧め、多くの信者を経済的破綻に追い込んだ、例の新興宗教を思い出します。その宗教は「キリスト教系」と言われていますから、ひょっとして、聖書のこの箇所を根拠としていたのかも?と思うと、ゾッとしてしまいますね。では、この箇所はどう解釈すればよいのでしょうか?

 キリスト教で言う「永遠の命を受け継ぐ」とは、不死身になるということではありません。体は滅びても霊魂は不滅である、という意味でもないそうなのです。じゃあ、なに?と思って、ネットでいろいろ調べてみると、ひとつは「たとえ死んでも復活する」という意味で、もうひとつは「現在の命において、永遠の命を生きる」ということだそうです。ますます、わからなくなりました。
 でも、なんとなく、「限りある命を生きる私が、永遠なる存在である神様と繋がると、たとえ限りある命のままであっても、100年先、200年先を考えながら、生き生きと今を生きることができるようになる」ということかな?と思いました。奥が深いテーマなので、「永遠の命」については、また別の機会に書いてみようと思います。

 さて、ここでイエスが言っているが、「全財産を投げ出せば、永遠の命を受け継ぐことができる」ということだとしたら、「大切なのは善行ではなく、神様を信じるというその一点だけ」という聖書全体を流れる考え方と食い違ってきます。※「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマの信徒への手紙 3:28)
 もしこの金持ちが、全財産を投げ出すという一大決心をしたなら、イエスは、「はい、それでは、あなたに永遠の命を差し上げましょう」と言ったでしょうか? もし、全財産を投げ出すという人間の行動によって、救うか救わないのかという神様の選択を操作できてしまうのだとしたら、それはとても変なことです。
 ここからは私の想像です。もしこの人が、「全財産を投げ出すなんて、そんな怖いことはできません。こんな不信仰な私をお赦しください」とイエスにすがったとしたら、どうでしょうか?  イエスは、「友よ、よくぞ気づいた」と、その人を抱きしめたのではないでしょうか。自分自身の弱さに気づいてもらいたくて、イエスは愛を込めて、あえてあのように言ったのだと思います。〈悔い改め〉が成就するように。

 この金持ちと対照的だったのが、ペトロです。かれは、仕事も生活も家族も捨てて、イエスに従いました(マタイによる福音書4:18~20)。だからこそ彼は、失意の金持ちが去った後、「このとおり、わたしは何もかも捨ててあなたに従って参りました!」と胸を張って言ったのです。「こんな私なら、永遠の命を受け継ぐ資格はありますよね」と、自信満々だったことでしょう。しかしそんな彼も、その後、死を直前にしたイエスを置いて逃げ出すなど散々でしたから、この時点で永遠の命を受け継いでいたとは到底思えません。
 やはり、財産や家族を投げ出すか否かという行動によって、神様との関係性が変わってくるとは思えないのです。

 もし、救いや恵みを自分の手に入れるために、全財産を投げ出すのなら、それは、私利私欲のために財産を使うのと大差はなくなってしまいます。
 そうではなく、「まず始めに、神様からの無条件の愛がある」ということなのだと思います。どんなにダメな行動をしてしまう人間に対しても、神様からの救いや恵みが降り注いでいる。そのことに気づくと、嬉しくて、ありがたくて、自然に神様の意図に沿った行動がしたくなるのだと思います。
 家族も友人も仕事も財産も、すべては神様からの賜物だと気づくと、私利私欲のためにではなく、自然に、〈天の論理〉に従った使い方をしたくなる。そういうことだと思うのです。自分の所有物を投げ出すことで〈天の論理〉に近づけることもあるし、投げ出さず、大切に用いることで〈天の論理〉が実現できる場合もあることでしょう。

 こんなダメな私に対しても、すでに神様は、たくさんの救いや恵みをくださっていた。この気づきによって、私は今日まで生き延びることができました。