★イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」(マルコによる福音書10:38)

 聖書を読むとき、どの登場人物の立場に立つのかによって、受け取る印象がまったく違ってきます。たとえば新約聖書では、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが、イエスの考えを否定する敵対者として登場します。彼らは、当時のユダヤ社会のエリート層であり、「社会的な常識」の体現者です。旧約聖書の守護者を標榜しつつ、実際には既得権益を手にし〈地の論理〉を生きていました。そんな彼らに対し、イエスは〈天の論理〉を説いていくのです。
 聖書を「〈天の論理〉と〈地の論理〉の戦いの物語」だと考えると、「ファリサイ派や律法学者のような考え方は間違いですよ。みなさんは、イエスのような考え方になりましょう」ということになります。イエスの立場に立ちながら読み進めていくと、ファリサイ派や律法学者は、まったく困った人たち!という印象を受けるかもしれません。「悪役=ファリサイ派・律法学者VS正義の味方=イエス」という図式で見ていくと、聖書をとても単純に、気持ちよく読んでいくことができます。

 しかし、実際の暮らしの中で私たちは、ほんとうに、〈地の論理〉に別れを告げ、〈天の論理〉を生きていくことができるのか? そうしたいのはやまやまですが、なかなかそうもいかない、ファリサイ派や律法学者のように、〈地の論理〉に従わなければ生活をしていけない場面がたくさんあるのではないでしょうか。イエスにではなく、ファリサイ派や律法学者に自分の身を置き換えて読んだ方が、ぴったりとくる場面がたくさんあるのです。
 イエスとともに過ごし、その教えを学び続けていたはずの弟子たちでさえも、「先生が栄光を受けるとき、その隣に自分を座らせてください」という私利私欲に満ちた、ぬけがけ的なお願いをイエスにしています。〈地の論理〉の典型のような態度です。しかも、イエスが苦しみながら十字架への道を歩む、そのまっただ中で。
 しかし弟子たちの態度も、人ごとではありません。〈地の論理〉に絡め取られてしまう人間の弱さ。これこそが聖書で言う〈罪〉、仏教で言えば〈煩悩〉なのでしょう。

 「人を蹴落として、自分が一番になりたい」という競争原理。しかし競争原理は、生命の誕生に不可欠であるという考え方があります。男性の体内で1日に作られる精子の数は、およそ5億個。5億個の精子が卵子に向かって一斉に泳ぎ、熾烈な競争に打ち勝った最後の1個が、受精するわけです。生命の始まり自体が、競争原理によって裏付けされているのです。
 また、死に支配されている〈地なる生物〉は、生き延びるための生存競争から逃れることはできません。心の奥底に潜む「死への恐怖」ゆえに、自分という「尊い命」を守るために、自分の身の安全を真っ先に優先してしまいます。これは人間に限らず、すべての〈地なる生物〉がもつ宿命なのです。
 しかし、逃れられない宿命としての〈地の論理〉を抱えつつ、人間はみな、〈天の論理〉を目指したという願いを持っています。これもまた、逃れられない「本能」のようなものです。〈地の論理〉と〈天の論理〉の間で引き裂かれながら歩き続けるのが人間の宿命なら、これはもう、神様の助けを得るしかないのです。

 そんな私たちにとって、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」というイエスの言葉は、大きな救いになるのではないだろうか。そんな深読みをしたくなりました。
 この言葉は、弟子のヤコブとヨハネの「先生が栄光を受けるとき、その両隣に私たちを座らせてください」という〈地の論理〉に縛られた要求の後で発せられたものです。ですからイエスの発言の趣旨は、「お前たちの要求は、私が十字架に付けられたとき、『左右の十字架に付けてください』ということを意味しているのだよ。その意味がわからなくて、言っているのだよ」と解釈するのが自然だと思います。しかしそこには、まったく別のメッセージが込められているのではないでしょうか。
 私たちはしばしば、ヤコブとヨハネのように、〈地の論理〉に絡め取られた要求や願いをもってしまいます。でもそれは、自分自身の「本当の願い」、〈天の論理〉に立脚した「本当の願い」に気づかないでいるからなのです。ここでイエスは、ヤコブとヨハネに向かって、「自分たちだけを栄光の座に着かせてくださいだなんて、それは、あなたたちの『本当の願い』ではないでしょ。『本当の願い』は別にあって、それが分かっていないだけだよ。〈天の論理〉に向かおうとする、自分の『本当の願い』に早く気づきなさい」と、愛を込めて語りかけているのではないでしょうか。
 強引な解釈かもしれませんが、そう考えずにはいられない私がいます。