★神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3:11~13)

 2月12日のブログで、アダムとエバの楽園追放について書かせていただきました。
 エデンの園で幸せに暮らしていたアダムとエバは、ある日、ヘビにそそのかされ、神様から「食べてはいけない」と言われていた、園の中央にある木の果実を食べてしまいます。じつはそれは、「善悪がわかるようになる知識の木」でした。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3:7)その様子を見た神様は、二人が約束を破ったことに気づき、上記のように問いただします。
 神様との約束を破ったことが、人間の原罪であり、そのせいで二人はエデンの園から追い出された…。そんなふうに、前回は書きましたが、それは私の誤解(不勉強)だったのでは?と、その後に気づいたというのが、今回のお話です。

 もともとは「事の善悪」がわからない幼児のようだった二人が、ヘビにだまされて犯した過ちですから、おおいに同情の余地はあります。食べるか・食べないかの選択権を与えることが、神様の意図だったのなら、選択の結果次第で賞罰が分かれることは、本当の意味で選択権を与えたことにはなりません。「約束を破って、知識の木の実を食べた」ことが、楽園追放の理由ではなかったのです。
 それでは、なにが神の怒りに触れたのか? それは、木の実を食べた後の、二人の行動にあったのではないでしょうか。
 善悪が分かるようになった二人は、「何が良くて、何が悪いか」という認識方法を獲得します。そして、まず最初に、「裸をさらしているのは、悪いこと」という善悪の判断が生まれ、局所を隠そうとしたのです(その目が、まず自分自身に向けられたことは、自我の発達経過と類似していて、興味をそそられます)。
 次に、木の実を食べたことが神様にばれそうになった時、二人の前には、2つの選択肢がありました。ひとつは、「正直に、自分たちが犯した過ちを認め、謝罪し、神様にゆだねる」という選択肢。もうひとつは、「うまく言い逃れをして、自分たちに非はないと、神様に納得してもらう」という選択肢です。前者は「神様の力に助けられながら、自分の十字架を担う」ということ、後者は「自分の欠けや弱さをみとめず、自力によって、神様をもコントロールしようとする」ことを意味しているのではないでしょうか。
 「善悪がわかる知識」を手に入れたことを、神様が怒っているのではありません。それを、どのように使うのか、そのことを問題にしているのです。「善悪がわかる知識」を手に入れつつも、なお、自分が抱えている弱さ・欠け・限界に気づき、人間を超える存在への畏敬の念と感謝を忘れないでいること。それが神様の願いだったのでしょう。
 知識を手に入れ、自分たちの限界に気づかなくなり、神様の存在を忘れてしまうこと。それが人間の「原罪」だとしたら、それはまさに、現代社会の課題そのものではないでしょうか。

 ところで、アダムとエバの末裔たちのなかで、「二度と同じ過ちは繰り返さない」と必死に努力をはじめた人々がいました。神様に喜ばれるためのたくさんの行動規範を作り、それを厳しく守ることで、神様の怒りを買わないようにしようとしたのです。それは、〈律法〉という名の行動規範でした。しかし、行動規範の存在が、神様を超えるものになってしまうと、それはしばしば、「人間としての限界」を忘れてしまうという結果をもたらします。「神様、あなたに喜ばれるような完璧な行動をしている私には、あなたの怒りを向けないでください」という祈りは、いつのまにか、「自分の欠けや弱さをみとめず、自力によって、神様をもコントロールしようとする」という方向性を生んでしまうことがあるのです。
 木の実を食べて手に入れた知識を、私たちは、まっさきに自己防衛や自己正当化のために使おうとしてしまいます。やはり私たちは、アダムとエバの末裔に違いありません。