★主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。(創世記3:23)

 前回、「人間が、いつの間にか犯してしまっている『大きな罪』」について書きました。このところ連想ゲームのような流れになっていますが、今回は、「大きな罪」についてもう少し考えてみたいと思います。

 キリスト教で〈原罪〉と呼ばれているのは、人類の祖とされているアダムとエバが犯した過ちです。人類の祖が犯した罪だから、子々孫々に至るまで、人類全体がその罪を背負わなくてはならない、ということだそうです。では、二人が犯した罪とは?
 神様が作った楽園(エデンの園)で暮らしていたアダムとエバは、何不自由のない暮らしをしていました。しかしある日、神様から「食べてはいけない」と言われていた、園の中央にある木の果実を、ヘビにそそのかされて食べてしまいます。じつはそれは、「善悪がわかるようになる知識の木」でした。たちまち覚醒した二人は、自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしさを覚えます。その様子を見た神様は、二人が約束を破ったことに気づき、エデンの園から追放します。その後、二人とその末裔(人類)は、荒野を耕しながら、労苦のうちに日々を過ごすことになるのです。

 この話を聞いて「なるほど、よくわかりました」と納得する現代人は、まずいないでしょう。もし仮に、この話が本当だとしても、「楽園を追放されるほどの罪かしら?」という疑問が湧いてきます。
 ずる賢い大人のようなヘビにだまされた、経験値の低い小さな子どものようなアダムとエバは、むしろ被害者なのでは?という見方もありそうです。一番悪いのは、二人をだましたヘビです。もっともヘビは、「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣(けもの)の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」と、神様から言い渡されるのですが。
 それよりも、そもそも、食べられては困るような厄介な木を、神様がエデンの園に植えたのは、なぜでしょうか? 疑うことを知らない二人の性格を、神様はよくご存じだったと思うし、それでも植えていたということは、「本当は、木の実を食べさせたかったのでは?」と邪推してしまいます。でも、もしそうなら、楽園追放などという厳しい罰を与えたのは、どうしてなのか? 謎は深まるばかりです。

 ここからは、私が考えたことです。
 もし、善悪の知識の木が植えられていなければ、アダムとエバは、生涯、エデンの園で安全に暮らすことができたでしょう。しかし、神様が二人にプレゼントしたかったのは、「安全」ではなく、「善悪を見分ける力」ではなく、「選択権」だったと思うのです。「自分の人生を、自分で選択する」ということをしてほしかったのだと思います。
 聖書の他の箇所でも、「キリスト教の神様は、人間の〈選択の自由〉を尊重するんだなあ」と感じることがあります。選択の結果によっては、とんでもない事態になってしまうこともあるでしょう。でも神様は、人間がどんな選択をしても、「ほら、だから言っただろう。もう、勝手にしろ!」と見放すことはしないで、とことんついてきてくれます。このあたりが、「自己選択イコール自己責任」という図式が、人々の分断や孤立感を助長している現代社会のありようとは違うところだと思います。

 木の実を食べた人類は、〈善悪を見分ける力〉をもつようになりました。なにが善であり、なにが悪であるかが見分けられると、人間らしい行動が選択できます。「人に優しくすることは善であり、人をいじめることは悪である」と知ることで、より良い生き方を追求できるようになります。〈善悪を見分ける力〉、そして〈自分の行動を選択できる力〉によって、人類は成長・発展を遂げてきたのです。
 しかし一方で、〈善悪を見分ける力〉によって、人類は不幸を量産してきました。人と人の争い、国と国との争いは、善と悪との戦いではありません。善と善との戦いです。どんな独裁者も、「悪を実行しよう」と思っているわけではなく、その人が信じている「善」のための行動なのです。人間性を疑うような、人類が犯してきた大量虐殺の数々も、それを支えた「善」の思想があったのです。

 その点、人類以外の生物は、無用な大量虐殺はしません。「善」を旗印にした暴走行動がないからです。善と悪とのせめぎ合いとは無縁な世界で、素朴に、自然のままに生きている動物たちがうらやましくなります。人間も、善悪を見分ける力を捨てることができたなら、あんなにのんびりと自然に生きていけるようになるのでしょうか。
 そうはいうものの、人類以外の動物は、弱肉強食の世界を生きています。人間の世界では、「強い人が、弱い人を食い物にする」ということは悪ですが、善悪の概念をもたない動物の世界では、それは自然なことです。強い動物が、弱い動物の赤ちゃんを何匹食い殺しても、それは本能に従って淡々と行動しているだけですから、「罪」ではないのです。
 また、本能に従って生きる動物たちには、「それ以外の生き方」という選択肢はありません。自己選択がないところには自己責任もありませんから、動物の場合は、どんなに残虐な行動をしたとしても、責任を問われることはないのです。
 人間がもし、もう一度、神様からチャンスをもらったなら、〈善悪を見分ける力〉と〈自分の行動を選択できる力〉を捨て、動物のような生き方を選ぶでしょうか? 多くの人は、そんなことはしないと思います。知恵の実を食べたことによって、争いや悩み、苦しみや矛盾が生まれたとしても、その二つの力を捨てることで、世の中から戦争がなくなるとしても、そのような選択はしないでしょう。
 そういう矛盾を引き受けた上で、〈善悪を見分ける力〉と〈自分の行動を選択できる力〉を正しく使うことによって乗り越えていこうとするのが、人間が進むべき道です。私たちはあの時、アダムとエバと共に、その道を選んだのです。

 善悪を見分ける力を持ち続けながらも、善と善の争いを乗り越えていくためには、〈対話〉がとても大切なのではないでしょうか。相手の中にある、相手なりの「善」がお互いに見えてくると、「どちらの善が正しいのか?」という果てしのない堂々巡りの戦いが止みます。そして、「正反対の『善』は、どちらも真実である」という認識が進んでいく中で、2つの「真実」を越えていくような「第3の真実」が明らかになっていくのです。これは、弁証法的な止揚(アウフヘーベン)です。人間の力では発見することができない「第3の真実」は、対話の中でしばしば神様から与えられる、と私は思っています。
 〈善悪を見分ける力〉と〈自分の行動を選択できる力〉は、人間に与えられた賜物です。しかし、この2つの力だけで、すべてが解決するはずだという「自力解決主義」に陥ったとき、人間は行き詰まり不幸に襲われます。神様から与えられた賜物をより良く用いるためには、神様という後ろ盾を忘れてはならないのです。
 「人間の原罪とは、神様の存在を忘れてしまったことだ」と言われます。神様の存在を忘れてしまった「自力解決主義」は、人間を行き詰まらせ、さまざまな不幸を生み出します。このことが、原罪に対する最大の「罰」になっているのかもしれません。