★わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコによる福音書8:34)

 これは、キリストが弟子たちに、「自分はもうすぐ殺される」という話をした後に続く言葉です。だとすると、「私に続いて、あなたたちも死刑台への道を歩みなさい」という意味かなあ。もしそうなら、私が弟子だったら、すぐに顔面蒼白になり、「わー無理! ごめんなさい!」と逃げ出したに違いないと思います。
 しかし、ほとんどの弟子は逃走しませんでした。それは強い信仰心があったから? いえ、でも、そのあとの弟子たちの行動を見ると、単に想像力が欠けていただけ、あるいは、イエスの言葉を真に受けていなかっただけ、なのかもしれませんが。
 私としてはこの箇所を、思考停止に陥らないように、「イエスの言葉は象徴的な表現である」と解釈させていただき、だとすれば、私にとってはどんな意味があるだろうか?と考えてみたいと思います。

 この箇所に対して牧師さんは、「〈自分の十字架を背負う〉ということと、〈自己肯定感〉との関係」という視点で語られていました。興味深い視点だと思いました。
 たしかに、自己肯定感が低く、私はダメな人間だという思いが強いと、〈自分の十字架を背負う〉は、罰ゲームのように聞こえるのではないでしょうか。「あなたのダメさ加減は、あなた自身の責任なんだから、自分で自分の責任を取れ!」みたいな感じで。なので、そのような誤解に陥らないためには、まずは自己肯定感をもつことが必要だと言えるかもしれません。
 ただ、相談室でお会いするクライアントさんの中には、自己肯定感をもつということが簡単ではない方も、結構いらっしゃいます。特に、「自己肯定感がないところが、私のダメなところだ」と思っていらっしゃる方にとっては、「自己肯定感が必要」という言葉自体が、さらに自己肯定感を下げる原因になってしまい、悪循環から抜け出すのがけっこう難しいのです。
 自己肯定感の低さは、親にどんなふうに育てられたかということが影響している場合があります。親が子どもに○をつけながら育てていると、やがてその子も、自分で自分に○をつけることができるようになります。親が子どもに×つけながら育てていると、子どもも自分に対して、×をつけてしまう傾向が出てくるのです(そのような生育歴を持った人でも、親以外の他者、たとえば信頼できる仲間や友達から○をもらうことで、だんだん自分に○をつけられるようになる場合があります)。

 それでは、親が子どもに○をつけていると、子どもは必ず自分に○がつけれるようになるかと言うと、必ずしもそういうわけではありません。親が愛情いっぱいに育てていたにもかかわらず、自分に×を付ける傾向をもつ子どもを、相談室ではたくさん見てきました。
 こういうお子さんは、嫌なことや辛いことがあっても、親に泣きついたり、甘えたり、助けを求めたりせずに、自力でなんとかしようする傾向が強いのです(私は、「ガマンのがんばり屋さん」と呼んでいます)。ところが、人間は神様ではありませんから、弱点や欠点や力の限界があります。にもかかわらず、助けを求めようとしないとなると、当然、挫折が多くなってしまいますから、「自分は何をやってもダメだ」と感じることが増えてくるのです。
 しかし、そんな子どもたちが甘え上手になり、必要な助けを求められるようになると、自信をもつようになり、その子本来の良さが輝き始めます。
 自らの弱さを認め、必要な助けを、自分より大きな力に求めるということ。これは、「悔い改め」の構造と同じです。自分の弱さを認め、他力の後ろ盾を得ることで安心感が増え、新しい強さを獲得するのです。

 そんなふうにいろいろ考えていると、「自分の十字架を背負う」ということの、私にとっての意味は、2つあるように思えてきました。
 一つめの意味は、「自分の弱さ・欠点・醜いところ・情けないところを、『たしかに、そのとおりです』と認め、自分のものとして引き受ける」ということです。それは同時に、「神様の存在を認め、その大きな力に不完全な自分をゆだねる」ということでもあります。
 自分の弱さを認める。改善への努力、自力解決を諦める。そして、「こんな私ですが、よろしくお願いします」と神様にゆだねると、〈自分にできる目の前の小さなこと〉に気づきやすくなります。すでに与えられている〈賜物〉にも、気づきやすくなります。すると、自分がこの世ですべきこと、〈自分の役割〉が見えてくるのです。「〈自分の役割〉をしっかりと引き受けること」。これが、「自分の十字架を背負う」ことの二つめの意味ではないだろうか。そんなことを考えていました。