80年代前半に活躍した日本のパンクバンドを語る時、外せないのが『スターリン』。そのリーダーであり、VOCALだったのが遠藤ミチロウ。DOORSや吉本隆明のファンだということ。ステージを降りた時の純朴そうな風貌。東北生まれというコンプレックスをアイデンティティにしているところ。20代の頃の僕にとって忌野清志郎とともに一番リアルな存在だった。
スターリンの音と暴力的なステージは、多くのパンクロック少年・少女を虜にした。もっと言うとスターリンのような音のバンドが、雨後の竹の子のように生まれ、ライブハウスで活動しては消えていった。スターリンの音には、フリクションのようなアーティスティックなニュアンスはないし、INUのような優美さとも無縁だった。しかし、その頃の平凡な少年少女の不幸な感受性を結果として代弁しえたという意味で、他のバンドの音にはない淘汰力を持っていた。一度だけ観たスターリンのライブでのミチロウさんは圧倒的にカッコ良かった。黒いゴムボールのようにポンポン跳ねながら、ひたすら観客をアジテートしていく。ロックのコンサートというよりは、格闘技を見ている感じに近かった。
スターリン解散後の1985年に何枚かのレコードとして発売されたグロテスクニューポップというコンセプトの作品も新しかった。性急でFUNKYな音をバックに、ひたすら、言葉の弾丸を繰り出すスタイルは、もう少しでHIP・HOPになりそうな場所まで、パンクロックを引っ張って行った。もし、この頃のミチロウさんに欠けていたものがあるとすれば、それはそういったスタイルの音楽への愛ではないかと思う。ハードなパンクロックほどには馴染んでない感じが、どうしても否めなかったのだ。『当為としてのニューウェイブ』…何か、そういう観念に囚われていたように思う。
昔のミチロウさんの何枚かの作品を聞き直してみた。そして、ブログで、この作品『TERMINAL』を紹介しようと思った。ミチロウさんのファンなら誰もが認めるスターリン時代ではなく、何故このアルバムを紹介しようと思ったか?一番の理由は、一番ミチロウさんらしいと思ったからだ。
アルバムは、まるでゆっくり流れる冬の水を連想させる曲、飢餓々々帰郷から始まる。曲の途中から、いつもの荒っぽいパンクロックに転調していく。歌の内容は、純朴な若者が少しずつ変わっていく様を抽象的に表現したようなもの。正にミチロウさんだと思う。
その後、何枚かの作品をリリースしながら、ずっとギターひとつで全国のライブハウスを行脚しているミチロウさん。数年前に大阪のハードレインというライブハウスで彼のステージを観た。1時間半ほどのステージの間、100人近い20代の若いファンは、煙草を吸うこともなく突っ立ったまま、ミチロウさんの歌に聞き入っていた。それは30年近く前に観たボブディランのコンサートとは違う形だったが、どこか似ている気がした。
