私は様々なものを失い、今七十を超えた。
正確には齢、七十二歳に成った。
考えてみると、会ったこともない祖父が、亡くなった
年齢と同じになったことに気がついた。
私の祖父は、ひと言で言うと《ヤクザ》である。
おっと失礼!《俠客》である。
私を含めて一般の人にすれば、どう違うのかと言うところだが祖父にすれば大いに違うらしい。
晩年、祖父はこう言ったと聞いている。
『ヤクザ、冗談言うな俺は俠客だ!』
どこがどう違うというのだろうか。
私が祖父の存在を意識した最初は小学校の六年だったと記憶している。
ある日のこと、細かくは憶えていないが、図画工作の授業で使う小刀を上着の中に隠し持っていたことが問題になり、親にも連絡されてしまった。
当時の担任が、たしか産休で代わりの若い女教師が私のクラスの担任なった
。
私は、この教師は苦手だった。
きっとこの若い女教師も私のことは扱いづらい生徒の一人だったのだろう。
学校から連絡を受けた両親は、いつになく深刻な顔で私の前に座り、父親から次の日曜日に横浜の叔父の処へ行くように言われた。
私は、なんで小刀事件が横浜の叔父の処に飛ぶのか、まったくわからなかった。
それに刃物を隠し持っていたわけではなく、筆箱にしまい忘れてそのままにしただけのことだった。
港区の芝白金に住んでいた小学三年の時に神楽坂に移り住んだ。
その時から小学校を転校することなく港区の三光小学校に通い続けた。
東京タワーの完成する以前のこと、世の中のんびりしていたのだろう。
現在なら小学三年生が、電車やバスを乗り継いで通学することなど、許されないのではないかと思う。
神楽坂の街を抜けて外堀通りを渉と直ぐに飯田橋の駅にあたる、そこから電車で15分くらいで新宿である
。
私は代々木駅で山手線に乗り換えて渋谷を目指す、渋谷からはバスか都電に乗って三光町に着けば私の朝の
都内見学は終わる。
この遠距離通学は楽しかった。
周りの大人達は痛々しそうに見ていたようだが、まったくのお門違い。
毎日、登下校の時に目にする盛場の風景や、そこに生きる人を見るのが楽しみだった。
私は、独りで映画館にも行けたし飲食店にも行った。
きっと私は早熟だったのだろう。
小学三年から始まった電車通学は六年生の頃にはすっかり慣れていて通学路を外れて、あちこちの盛り場を徘徊するようになった。
だから横浜の叔父の処へ行く事は、恐怖心も無ければ苦でも無かった。
父に言われた通り次の日曜日の朝、私は神楽坂を出発した。