尊が眼を覚ました時、初夏の太陽が高い処で燃えていた。
深い眠りの中にいたのだろう、昨夜の事がはっきりとしていない。
千夏に、帰らないでと言われて、千夏の言うままに、この部屋で一夜を過ごした。
眼を覚ました時、彼女の姿は見当たらなかった。
買い物にでも出たのかも知れない。
きっとそうだろう、煙草を探して身体を起こした。
昨夜千夏と語り合った椅子に腰掛け、テーブルの上の煙草を見つけ、一本を咥えて火を点ける。
吐き出した煙りを目で追いながら、人と一緒に居ながら正体なく眠った自分に驚いていた。
千夏と二人になれた自分が、
きっと安心出来たからなのだろうと尊は思った。
たしか眠る前に、薦められて風呂にも入った。
こんな日が来ればと、尊の為に買い揃えていたと言う
寝衣と洗面具を脱衣所で渡されたことは記憶にある。
千夏が脱衣所のドアを閉める迄、尊は服を脱がなかった。シャツの胸をはだけるだけで、彫物が見えてしまうと思ったからだ。
尊の胸には菊の花、その周りを這い回る八大龍王、そして背中には不動明王の化身の龍が宝剣に巻きつき、それを呑み込もうとしている図柄が彫られていた。
それを千夏に見せることが尊は嫌だった。
普通、個人差はあるのだろうが彫物は三年程度で彫った処を補修することが多い。
そうしないと、図柄の色が薄れたり、線の部分が滲むようになって綺麗ではなくなる。
若い時はそれを気にして何度かつき返をしたが、長い懲役でつき返しも出来なかったために尊の背中は納得のいかない状態だった。
それに加えて加齢による肌の弛みなども加わわっていた。
初めて肌に墨をついた頃は
まだ若かった為に、肌の艶も張りもあって仕上がりは見事なものだった。
だからと言ってそんなものを千夏に見せたくはない。
それより昨夜は、二人はどうなったのだろう。それがどうしても思い出せない。
多分、久しぶりの喧嘩騒ぎ
で、尊も気が張っていたのだろう、千夏の部屋で薦められた酒と懐かしい思い出話に酔ってしまったのだろう。
歳は取りたくないと尊は思った。
千夏の帰りを待ちながら、尊はいろいろな事に思いを
馳せていた。
尊が目醒めてから二時間が経過している。
千夏は何時に部屋を出たのだろう。
まだ千夏は戻って来ない。
胸騒ぎがした。
朝早いかと思ったが、尊は徳田に連絡を入れた。
「早いなあ、お目覚めですか」電話に出た徳田は呑気な調子で話し始めた。
昨夜、千夏の部屋に泊まった事を徳田に知られるのは
嬉しくはなかったが、それを隠していては千夏の姿が
見えないことを徳田に納得がいくようには伝えられない。
尊は正直に昨夜からのことを、何もかも話した。
徳田は、尊が千夏の部屋で一夜を明かしたことに驚きはしたが、千夏の姿が消えたことの方が心配だったようで、昨夜のことより今朝から姿の見えない千夏を心配していた。
「千夏さんの携帯は鳴らしたのか」
「もちろん、三回は鳴らした。ちょっと心配なんだ」
徳田も心配そうな態度で、尊の顔を覗いている。
「警察に連絡しようか」
「俺がか」
尊がそう言うと徳田は、連絡は俺がするけどと言って店の電話の処へ動いた。
尊は、その徳田の背中に向かって、もう一度だけ千夏に電話してからにしようと言った。
徳田も尊の言うことに賛成した。
千夏の携帯に尊は電話をするが、やはり繋がらない。
徳田に警察へ連絡して貰うしかないと決めた時だった。
尊の携帯が鳴った。画面には工藤の名前が。
「なんのようだ」
「なんのようだはねぇだろう、小田さん」
工藤は静かに話していたが、
何か、こちらの混乱が解っているようだった。
工藤の用件は当然と言える
内容だった。
自分達の世界で一番大切に
しなくてはいけないことは
面子だ、これを潰そうとする相手は、排除しなくてはならない。
そんなことは大先輩の小田尊ならよく理解出来ている事だと思ったが、交渉の場に拳銃を持ち込み、こちら側をあれこれ事前に調べて、
交渉で決着しようという、誠意も踏み躙られてしまい、
工藤側の面子は丸潰れになってしまった。
一億の現金を工藤側に返済するのはもちろん、尊自身に稼業上の責任を取って貰うことに仁和会として決定したという内容だった。
尊は電話に向かって「一晩考えた口上、中々の出来だとは思うが、おまえのつまらない小遣い稼ぎが仁和会の総意だと言うのは違うんじゃないか」
これが仁和会の総意と言うなら会長は、この件を了解していて、小田尊から一億を返済させることも納得していることになる。
「これが仁和会の意向だと言うなら、あとは会長と話すよ工藤」
会長の了解事項かを、もう一度確認して電話を切ろうとしたが、工藤の次の言葉に尊は切るのを止めた。
工藤は尊が、もっとも恐れていたことを話し始めたのだ。
「坂井の婆さん、いい女だよなぁ、心配することはねえよ、何にもしちゃあいねえから、七○の婆さんとやったなんて、嗤われちまうからよ」
「工藤、千夏に手を出してみろ、必ず殺すぞ」
「あんた、自分の立場解ってないな」
工藤は、千夏の身体と一億を交換することを提案していた。
そしてその後は、尊に責任を取って貰うことを伝えて
電話を切った。
時間と場所はまた連絡するということだった。
やはり、彼奴らはどうしようもないと、尊は思った。
今はとにかく千夏の救出を優先にすることが第一だ。
工藤からの連絡を待っている時に、西田竜二から電話があった。
その用件も尊を驚かすものだった。
「会長が倒れました」
西田の電話は仁和会の会長
佐々木剛太郎が、二日前に
伊豆の別荘で脳梗塞を起こしたということだった。
二日前のことが何故、今の連絡なのか西田は説明する。
一週間前に幹部会の場所で、
佐々木は来春、会長を引退
すると発表した。
そのあと伊豆に向かったのである。
当然、幹部会は大騒ぎに成った。
そして後任の会長には誰が
成るのかが全国の仁和会系
の組員達の関心事になった。
佐々木は伊豆の別荘で主だった幹部達と後任を含めた
今後の問題を協議する予定
だった。
ところが伊豆に集まる予定の幹部達が来る前に佐々木は脳梗塞で倒れてしまったのだ。
工藤は佐々木から跡目はおまえにという言葉は貰っていない。
仁和会全体が雰囲気として跡目は工藤だろうという流れになってはいたが、そこまでの事だった。
陰で跡目相続に対する根廻しはしていたものの、工藤が次期会長だと言う確かなものは無かった。
このまま佐々木の意識が戻らなければ、ましてや亡くなるような事にでもなれば
工藤の今迄の努力が水泡に
なってしまう可能性もある。
気が気ではない心境だった。
西田から大体の話しを聞いた尊は、はやる気持ちを抑えて伊豆に行こうとはしなかった。
千夏の事に工藤が関わっているのが一番の問題だった。
運良く佐々木が快復したとしても、要らぬ心配をかけることは避けたい。
立場上、工藤は伊豆に向かったろう。
尊は今、組員ではない。
堅気なのだ。
佐々木への想いを捻じ伏せるようにして、今やるべき
ことを考えた。
しばらくして工藤から連絡が来た。
仁和会の本部事務所で会うことになった。
尊は、中々稼業の汚れが落とせないと自嘲した。
工藤の指定した時間に合わせて尊は神楽坂を出発した。
工藤は何故、伊豆に向かわないのだろう。