く
私の直ぐ横を走り抜けた少年の姿は、あっという間に見えなくなってしまった。
振り返って彼の姿を探してみても無意味なことは、解っている。
私はまた、あの夜のような説明のつかない時空の中に迷い込んでしまったのだろか。
あの夜もそうだったが、私に恐怖感はなかった
それよりも、私の大好きだった父親の姿に会えた喜びが私の心を埋め尽くしていた。
だからこれは、天が私にくれた贈物なんだと勝手に決めた。
そう言えば、膝の痛みが感じられない。
ここ三年以上、正座はもちろんのこと屈伸すら容易には出来ないでいる。
神楽坂に着いた時も膝の痛みは酷く、歩くことが大義だった。
今、その膝はまったく痛まない。
さすがに走れはしないだろうが。
少し歩みを速めてみるが支障は無い。
更に速める、そしてジョギング程度の速度を試してみる。
大丈夫だ!
実に何年ぶりに味わう爽快感だ、速度を徐々に上げて走る。
神楽坂の通りをあの頃のように走る。
行き交う人達、両側に連なる様々な店や建物が私の視界の左右から流れて消えて行く。
街の景色が変化している事に気がついていたが、もうどうでも良かった。
自分が高校生の頃の風景が流れていく。
あれこれ考える必要はないじゃ無いか、いつ迄続くかも解らないこの時間を楽しめばいい。
いつも若い頃を懐かしんでいたじゃないか。
それが叶っているんだ、それだけで充分じゃないか。
私は坂を駆け下り、外堀通りの交差点に辿り着いた。
呼吸も乱れていない。
ここまで来たんだから飯田橋の駅まで行こう。
心は決まった。
駅のホームにいる十七歳の私に会いに行こう。
気がつくと飯田橋駅への道はみずみずしい初夏の朝の風景だった。
此処へ来た時間はそろそろ陽の沈む頃だったのに。
今私は初夏の朝、ホームで電車の来るのを待っている藍色の学生服姿の私の後ろに立っている。
七十歳になろうとしている私が十七歳の私を見ている。
駅のホームの大きな丸い時計は八時十分を少し過ぎたところだ。
そうだ、あの頃の私は、毎朝八時十六分の電車で新宿駅に行き、そこで乗り換えて高校のある駅まで通っていた。
中学二年の時だった。
私には好きな女生徒がいた。
同級生の女生徒に仲を取り持ってもらい始まった二人だった。
君は毎朝私の家の近くで待っていてくれた。
肩を並べて中学校迄の道を歩いた。
嬉しかった、ただそれだけで。
愛しているつもりだった。
愛されているつもりだった。
愛し合っているつもりだった。
遠い過去のこと、何を話し何を聞いたのだろう。
今は何も思い出せない。
学年全員で行った臨海学校でのこと。
海に沈む夕陽の美しかったこと。
私が企画した区民ホールでのコンサート。
『五百マイル』
『パフ』
『虹と共に消えた恋』
PPMのナンバーを何曲も歌った。
いつも一緒だった。
恋の意味は判らなかったけれど、君のことが大好きだった。
手を繋いだこともない。
それだけの二人。
今でも、君の名前を憶えている。
忘れたことなどない。
君の星座が天秤座だと言うことだって、忘れたことなどない。
9月30日。
今日まで、一度だって君の誕生日を忘れたことなどない。
でも終わりは来た。
高校受験のシーズンになり、三年生になっていた私はその慌ただしい流れの中で
君と繋いでいた手を離してしまった。
卒業。
話す事も無くなってしまった。
高校生になり、君も飯田橋駅から通学していたが、会うことはあまりなかった。
その日。
乗り遅れそうになって慌てて電車に飛び乗った私は、何両目かで席に座った。
私の向かい側の席に君はいた。
嬉しかった、声をかけよう、なんと言えばいいのか、今も好きだと自分から言わなくては、勇気を出せ、しばらくの間、私は私自身を叱咤していた。
視線を逸らし続けていた私が気持ちを固めて君に向かって声をかけようとした時だった。
君は立ち上がり、急ぎ足で別の車両へ去って行ってしまった。
引き止める事も出来ずに、ただそれを私は見ていた。
君の姿が幾つも先の車両へ去って行くのを。
この朝、私の初めての恋は終わった。
八時十六分の電車がホームに入って来た。
この不思議な空間の中で、私は半世紀を迎える私の恋に決着をつける事が出来るだろうか。
電車のドアが開いた。
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