この事には触れない方が・・・ | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

このような話題に意見を言うのはどうかと思うが、いろいろな報道を観るうちに、コメントする人達の考えもいろいろなのだということが解ってきた。

もちろん、この事に対して私には私なりの意見がある。

それを話してみることにしよう。

芸能活動の自粛《⁉️》

唐突に流れた、アンジャッシュ渡部自身の発言、コロナ禍の昨今のこともあって、自粛という言葉に、私はアンジャッシュ渡部も感染か!などとおもっていた。
ところが、バラエティなどの報道から次第に実態が見えて来た。
どうやら犯罪として立件されるような事ではないらしい。
ただ、渡部様は、日本中の女性を見下した人生観と性癖を曝け出し敵にまわした。
私は、アンジャッシュがTVの露出を増やし、瞬く間にお茶の間の人気者になった頃から、相方の児島という芸人に好感を持ち、二人のコントを観るのが楽しみだった。
ただ、渡部様のことは好きになれなかった。

どうしてなのか自分でもよくわからなかったが、率直に言えば好感度の高いお笑い芸人の雰囲気の中に毒々しい何かを感じたからだった。
彼の眼が彼の心の内を見せているように思ったのだ。

だからと言って今回の騒動を予測していた訳ではない。
もちろん驚いた。
こんなことやってるんだと驚かされた。

《不倫》という言葉で括っているが、妻子ある男性なり女性が自分の伴侶以外の相手と道ならぬ関係を持ってしまい、世の中から許してはもらえない恋愛に沈んでいく話は、まぁ何処にでもある。

しかし、誰に認められなくても許されなくても、本人同士には不道徳なりに相手を思う気持ちを持つものだ。
性的な欲望だけが、不倫する思いの背中を押しているわけではないだろう。
だからといって、やはり人の理解や赦しを得られるものではない。
時間が経つうちに、構図が見えて来た。
いきなりの自粛宣言の狙いは、渡部様なりの誠意なのかなと思ったが、なかなかどうしてそうではないようだ。

世間に知られる以前にいち早く業界での自粛を発表した渡部様のことを、多くの人は次は謝罪会見と思ったのではないか。
しかし渡部様は、そうはしなかった。
まったくマスコミに接触しないようだ。
レギュラー番組を10本以上抱えた渡部様は、経済的にも私などが考えも及ばない生活能力だったのだろう。
そして渡部様の勘違いが大きくなっていった。
芸人の大先輩が発言しているが、『嫁さんへの謝罪も大切だろうが嫁さんより長い付き合いの相方に対する謝罪がない。
後始末も含め相方の被る迷惑はかなりのものだと思う・・・』
まったくその通りである。
その相方は、泣きながらファンに向かって謝罪をしている。
そして『人気度が高くなり、厳しい批判をすることが出来なくなって・・・』
まるで渡部様の破廉恥な愚行を自分の責任であるかのように語った。
レギュラー番組の共演者達も渡部様を叱咤激励する人や涙を流す人達もいたようだ。

作品や番組が数多くの人達のチームワークによって成り立っていることを渡部様は基本的に理解はしていない。
渡部様は孤独な方だと思う。
他人に対する思い遣りや配慮が出来ない人間は友達ができるわけがない。
簡単に言えば、自己中心。
多目的トイレでしか、用を足せない人がいることまで気を回す人間性は持ち合わせていない。
女性の扱い方のひどいところも渡部様の育った環境もあると思う。
何故、こんな人間が世の中に出て来てしまったのだろうか。

一言で言えば、『師匠不在』ということだと私は思う。
人間は成長していく為にさまざまなものを吸収しなくてはならないし、していく。
それは、例えば食糧品から吸収される栄養素も成長するには欠かせない。
それと共に、知識・教養を身につける為の教育も不可欠である。
さらに人格を形成していく為に大きな影響を与える、思想・哲学などを軽んじてはならない。
もちろん渡部様も、最高学府の門をくぐってはいる。
平たく言えば、インテリである。

では何が渡部様にるゆ足りなかったのか?

私は、『師匠』だと思っている。
『師匠』、現代社会ではスポーツ関係のコーチと選手、部活動の教師兼監督。
習い事、例えばピアノ、琴、ギター、バイオリンetc.また、茶道、花道などもあるが、このような処での、教える者と教わる者との人間関係で教わる者、選手から見るコーチ・監督・講師などが『師匠』と呼ばれる人達である。
回りくどく書いたが、辞書などには、学問・武芸・芸術を教える人・教師とある。
今は、教える人の別称のように使われているが本来、『師弟』という人間関係の中に存在する『師匠』と『弟子』なのである。
良し悪しは別にして絶対的封建主義なのである。
『弟子』にとって『師匠』の言葉は絶対である。
『弟子』は自分の考えを挟む事は出来ない。
『師匠』にも多大な責任が有る。
『弟子』を、その道の一人者に成長させなくてはならないという責務だ。
その道の技量を高める事を教え、身に付けさせる為には、人格の形成が不可欠である。

例えば、剣を学ぶ人間が厳しい鍛錬を乗り越え技量を高めたとする。
だが、命の重さや人を愛する心を学んでいなければ、怪物を生み出すことになる。
あらゆる方向へ向けて『のモラル』が重要なのである。
仏教の教えの中には、『弟子』が地獄に堕ちるような時は、『師匠』も共に堕ちるとある。
またその逆もあるようだ。
このように親子を超えた強い間柄なのである。
人生の中で、自身が『師匠』を持つことの大切さをつくづく感じる昨今ではある。
渡部様には『師匠』がいなかったんです。
《以下次稿》