記憶の奥の福田雅一 3 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

 今、世の中は、と言うよりも世界中がと言うべきだろう。
世界中がコロナウィルス禍に覆われている。
2020年が明けた時、誰が現在の世界を想像したことでしょうか。

世界中で40万人を超える人々が感染し、死亡した人の数は1万8千人を超えた。

中国の街で原因が特定出来ない感染症のニュースを見た頃には誰も今日の事態を予測しなかったろう。
人生、何が起こるか解らないものだ。

敗けてはならない。

人類の歴史は、感染症との戦いの歴史と言っても過言ではない。

古くは、黒死病、ペスト。
近くは、HIV、SARS、MARS。
まだまだあると思うが門外漢の私には思いつくのはこれくらいだ。

だが、人類はそれらのどの戦いにも勝利して来た。
計り知れないほどの犠牲と悲しみを乗り越えて。

私が、『マツ吉』を最後に見たのは、何年何月かは忘れてしまったが、場所は熊谷だった。

『夢ファク』が旗揚げした熊谷市の体育館だ。

新日本プロレス熊谷大会。

セミ前くらいの取り組みだったように思う。

私は、『夢ファク』のスポンサーだった方と二人体育館の客席にいた。

試合が終わって控室に向かう福田雅一は、通路脇に座っていた私達を見つけ、少し驚いた表情をしていた。
マスコミが『ドン・フライ』との対戦が決まったことを報道していた頃だった。

結局、『ドン・フライ』戦は実現することはなかった。
それからどれだけの時間が過ぎたのだろうか、『福田危ないみたいです。』

突然の電話だった。

真夜中の高速道路を福田雅一の収容されている病院を目指した。

『夢ファク』がずっと存続していれば、私は私の後継者を福田雅一にしようと決めていた。
『俺は、オマエに喰わしてもらうぞ。』
と言う言葉でこの事を彼に伝えていた。

福田雅一の方に、実感があったかどうかはわからない。
たしか福田は『ハイ頑張ります。』のような事を言ったと記憶はしているが、私の記憶などあてにならないので、なんとも言えない。

周りの人達からは、『三歩歩けば忘れてしまう』と言われているくらいだから。

私は、東北地方の名前も知らなかった街の見知らぬ病院の暗い部屋の中で頭部と顔面を包帯で覆われベッドに横たえている福田雅一と会った。

東北地方はまだ春とは言えないほどに寒かった。