1995年3月31日 金曜日。
熊谷市民体育館。
よく晴れた日だった。
風が強かった。
メキシコから帰国してからの私のスケジュールは多忙を極め、身体はかなり披露していたと思うが、心は高揚感に包まれていた。
この日は、地方ローカルながらテレビの中継もあった。
当時、団体として認知されているものだけを数えても29団体。
そしてこの日、30団体目として、我が《レッスル夢ファクトリー》が産声を上げる。
その日の朝、瑞々しさを感じさせる空気が心地よい緊張感を湛えていた。
この朝の細々としたことを、私は何一つ記憶していないが、この朝の空気の感触と空の青さだけは、今も忘れない。
人生とは、少なくても私の人生は、つくづく予測不可能な事の連続だと思った。
たしか、昼前には道場からクルマで10分ほどの会場の体育館へ移動していたと思う。
すでに、業者も来ていて、フロア全面には養生シートが敷き詰められていて、その上に観客用のパイプ椅子が並べられ始めていた。
メキシコから来日している選手達も宿舎にしてあるホテルを、1時には出発して此処へ向かっていると、通訳の青年から連絡があった。
今日の旗揚げ興行の目玉は、何と言ってもカネックと、実弟で日本初来日のプリンシペ・マヤの兄弟コンビに茂木・『神風』の二人がどんな戦いを繰り広げるのかに尽きる。
それに、もうひとつは、それまでのお人好しキャラを脱ぎ捨てた三浦 博文が《悪夢軍団》を結成して乗り込んでくる、三浦の連れて来る悪夢1号、2号、3号とは誰なのか、変貌を遂げた三浦の姿は?
インディ団体の乱立するプロレス界、連日連夜、何処かの街で必ず試合が行わられている。
そして様々なアングルが展開されている。
その中で、《レッスル夢ファクトリー》の創り出すアングルに、ファンはどの様な反応をするのだろう。
私が、団体を起こす事を公言した時、プロレス各誌の反応は、どれも厳しいものだった。
活躍を期待するような記事は皆無だった。
当時、辛口な論評で知られる週刊Fは《いずれにせよ、弱小中の弱小》と酷評した。
私は、この言葉を胸に刻んだ。
道場を持ち、厳しい練習を怠らず旗揚げを目指した若者達を、取材することもなく、一言のもとに切って棄てた週刊F誌を、私はメディアとして認めない。
ジャーナリズムの中に生きるのであれば、取材ありきではないだろか。
私達のプロレスを見て、酷評するのは構わないが、タラレバを一番言ってはならないメディアが、憶測でものを言う無責任、私の闘志に火がついた。
弱小中の弱小、《レッスル夢ファクトリー》、その誕生まで、あと数時間。
このあと、私にとって絶対絶命とは言わないまでも、まったく予期していなかった、事件が勃発することなど知る由もなかった。