ある男の静かで荘厳な終幕 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

私の知人が亡くなった。

面識はあるが、私はこの人のことをよく知っている訳ではない。

何処で、どういう父親と、どういう母親との間に生まれ、何という学校を卒業してどんな職業に就き、その人生は幸せだったのだろうか。

職業についてだけは、うっすらと知ってはいるが、それ以外は何も知らない。

四月十九日の午後、葬儀を終えて荼毘に付された。

定年後も家族の為に嘱託として、永年勤務してきた勤め先で働き、その後悠々自適の生活を送っていたようだ。

その余生は永く続かなかった。

彼の身体に癌が見つかった。

後になって判ったことは、癌は見つかった時点で末期だったということ。

癌の発症していた場所は肺だった。

手術はしなかった。

抗癌剤の治療が、中心だったように聞いている。

容態を彼の家族から聞いても、どこかピンとこない内容だった。

癌のある個所が、手術を困難とするためと聞かされて家族は納得していた。

部外者の私は、それ以上を追求する立場ではないので沈黙した。

数ヶ月の間、入退院が繰返された後、彼は転院した。

その病院は、緩和ケアを施す病院だった。

それを聞いて、私は彼の終焉が近づいていることを知った。

そして、十六日の午前二時を過ぎて、彼は逝った。

私より、一歳だけ年上の早過ぎた死だった。

彼の男としての矜持を、というか凄さを知らされたのは死後の事だった。

彼は晩婚で、一男一女の母である女性と所帯を持ち、いきなり、なさぬ仲の二人の父親として彼の新婚生活がスタートした。

血を分けた実の子でも、育児は容易なことではない。

成長するに従い、反抗期も来るれば、意思の疎通が図れなく、断絶する親子も多い。

彼の苦労は、並大抵のことではなかっただろう。

幼くして、彼を父親とした兄妹の、複雑な思いも計り知れない。

ともあれ、彼は父親の勤めを立派に果たした。

私は、彼の死後に聞いた話で、凄い仕事を彼がやり切ったことを知らされた。

彼の娘は言った。

《お父さんだけが、余命宣告を受けていたんだって》

かなり以前から、自身の残っている時間を知り、その苦悩を妻子とは共有しなかった彼の心中は察するに余りある。

妻の悲しみと動揺を考え、彼の出した結論だったのだろう。

実の子のように育み、今は立派に成人した二人の子供に、彼は悲しみの衝撃を、少しでも和らげようと思ったのかもしれない。

亡くなる日の昼間、我家の庭に咲くチューリップの咲き具合を知りたがり、妻に電話を入れたという。

肺癌の最期は、悲惨だと言われる。

医師から、彼の最期が近づいていることを知らされた家族も、実感が湧かないほど穏やかだったという。

『俺はもう死ぬんだ』と、病室のベッドで愚痴る彼のことを、家族は笑っていたという。

そんな彼の印象は、家族からは勝手に自分の病状を最悪だと決めつけている少し滑稽な父親だ。

今となれば、それさえも家族を想う彼の名演技だったのかも知れない。

彼は自らの人生ドラマのフィナーレに素晴らしい段取りを用意していた。

通夜の前夜、翌日の喪主である息子の挨拶文の原稿を、なんと近しい親類に依頼していたというのだ。

言葉もない。

これほど見事に自らの最期を演出した人を私は知らない。

私は、読経の流れる葬儀場の片隅で、《あなたの事を何も知らないで、安く値踏みしていたことをお詫びします。何一つ私はあなたに勝るものを持ち合わせていません。恐れ入りました。参りました。お疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。お見事!。》
心の中で彼に声をかけて、詫びた。

市井の片隅に生きる人の中にも、サムライは居るのだと、知らされた彼の最期だった。    
                                                           合掌。

《佳作座》の消えた街