ジャイアント馬場の話をする徳光さん。 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

数日前のことだった。
夕方から泊りがけで仕事に行くことになっていた私。
その前に、散らかり放題の家を片付けなくてはいけないのだが、なかなか。

そんな時、点けっぱなしのテレビで《徹子の部屋》が始まった。
ゲストは、ベテランアナウンサーの徳光和夫氏。
洗濯物を干したりしながら、テレビの前を通るたびに画面に眼を向けて、徳光和夫さんは必ずG馬場さんのことを話すだろうと予測していた。
徳光さんは番組の後半、やはり馬場さんの事を話し出した。

懐かしいエピソードの数々。

過去にプロレスの業界に些か関わっていたこともあり、また仕事を通じて二、三度ではあるが面識もあったために、徳光さんの語る馬場さんの人となりには共感することが多かった。
人が人を評価する基準は様々だ、だから全ての人に好印象与えることは難しい。
馬場さんの事を悪く言う人もいるだろう。
しかし、馬場さんに好印象を持っている人の数とは比べものにならないと、私は確信する。

いつの間にかテレビに釘付けになっていた私に、馬場さんの思い出が蘇る。

私がプロレスの業界にいた頃は、今のようなボーダレスの時代ではなかった。
A猪木率いる新日本プロレス、そしてG馬場の全日本プロレス、この二団体がメジャーと呼ばれ、それ以外の団体はインディと一括りにされていた。
UWFという格闘技系団体は、この括りとは一線を画していていた。

もちろん、私が代表を務めていた団体もインディだった。
先にも述べたように、インディの選手がメジャー団体のリングに上がることなど無い話の時代である。
その頃、私の団体の選手が新日本プロレス、全日本プロレスの両団体に参戦した事を記憶しているプロレスファンがいるのか判らないが、事実私のところの選手は、メジャー団体のリングに上がっている。

スポーツ新聞の記者の執りなしから、全日本プロレスに私の団体の選手が参戦する話が持ち上がった時に、私は馬場さんと初めて会った。

馬場さんの話になると、必ずと言っていいほど話題になる、キャピタル東急というホテルだった。
ラウンジのテーブル、馬場さんは私の前に座り、横にはレフリーの和田京平氏。
私の隣は、馬場元子さん。
言わずと知れた馬場さんの奥様。

今風に言えば、《緊張感ハンパなかった。》

その日を始めに電話での会話を含めて、四~五回馬場さんと話す事があったが、それは私の心の財産として今も残っている。
次回は、私が直接馬場さんからうかがった話や、私の見た馬場さんの人となりを書いてみたいと思う。