心の底に消えることのない澱み。 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。




私の胃袋の中でコールタールのような沈殿物が不快感を募らせている。
私は、エイプリルフールにとんでもない思いをした。
そしてその後は、GW迄仕事が忙しく、長い休みはただ、ぼんやりと過ごしてしまい、休暇中にやろうと思った事の全てが出来なかった。
私は、ロスアンゼルスの空港での体験を語る気になれないでいる。
その理由は、理不尽な出来事自体では無い。
私は、強くリベンジを誓い帰国した。
これは、運が悪かったとか、交通事故に遭ったような、などと云うレベルの話ではなかったからだ。
私は、傷付いた心と、その事に対しての対応を先ず一番に報告し、アドバイスを受けるのに相応しい人物に連絡をした。

その時、私の心は折れた。

『そりゃあ、おまえがなんかやってたんで、マークされていたんだろう』

彼とは、私が二十代の頃からの知己がある。

なんの縁なのか、未だに連絡をとりあい、仕事の相談などあれこれ世話にも成って来た。

私も、彼の為に出来る事はやらせてもらった。
定年後の彼の為に、職場も充てがった。
画家である彼の兄の作品を何点か購入させてももらった。
下品になるが、総額は百万や二百万ではない。

それほどの事を私が彼にして来たのには、もちろん理由が有る。

何度となく挫折を繰り返してきた私の人生で、大人として最初の壁にぶつかり、弾き返され、打ちのめされたことがあった。

そのどん底で私は彼の言葉で救われた。

どういう状況から救われたのかは、後の機会にするが、彼の言葉で私は這い上がることが出来、その後も彼の言葉をおりに触れ思い出し、指針として来た。

『信じる、と云う事は、例えばおまえの親友が泥棒をしたと云う噂を聞いた人間の報告を受け容れない事

更に、親友が泥棒をしたところを目撃した人間から直接話を聞いたと云う人間の言葉を受け容れない事。
また更に、親友が泥棒をする現場を目撃した人間からの話も受け容れない事。
最後に自分自身が親友の泥棒する現場を目撃した。
それでも、親友の事を信じられる心が、信じると云うことなんだ。』
まあ、文上から見るとかなり乱暴な話だが、まだ三十歳に成ったばかりの彼は、勢いよくこう語ってくれた。
彼の言いたかった事は、信じると云う事の厳しさだった。
状況の変化や、その時その時の心の状態などでぐらつくものでは無く、ぐらつくようなものでは、信じると云う事にはならない。
と云う事だった。

私は、この言葉を本当に座右の銘にして来た。

その本人が、私の話を頭から否定した事に私はショックだった。

長年の先輩後輩の間柄としても、彼の口から頭ごなしに『そりゃあおまえがなんかやって・・・』
私は、言葉を失い、心を折られた。

それから、一ヶ月以上が過ぎた。

信じると云う事の難しさを、彼は身を以て教えてくれたのだと思う・・・しかないし。


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