どーもどーもです、たつとらです
「ハイペースで更新したい」とか言っておいて(2つ前記事参照)
ハイペースとは何ぞや?というスローペースな更新。
スミマセソ。
さて、
本日の記事ですが、
タイトルを見ると
穏やかじゃないですねぇ(笑)
大川隆法総裁先生の「死亡」ニュース以降、
まぁ風のうわさでちらほら聞いたり、
SNSで不本意にもそういう方のアカウントを見かけたりするんですが、
なんで???
って思うので、
ちょっと意見というか見解を書きまする。
あくまで、たつとら個人の意見です。
はっきり言いますと、
信仰を捨てる人って
信仰に疑いを持つ人って
ちょっとしたことで信仰が揺らぐ人って
単なる教学不足なのでは?
って思ってます。
教 学 不 足。
だってね、
『太陽の法』をはじめ、
『漏尽通力』とか
『観自在力』とか
さらには
『宇宙人のリーダー学を学ぶ』とか
そういうの読んで、
「人間が説ける法ではない」って思わないのかなって。
たとえどこかに「だまし」があったとして、
じゃあ今まで大川総裁が説き続けてきた「仏法真理」を否定できるのかって。
この法をどう「嘘だ」「幻想だ」「狂人だ」と非難できるのかって。
仏とは法であり、
法そのものが仏である。
法の中に仏があり、
法を見れば仏が分かるのですよ。
信仰を捨てる人は、
「法」じゃなくて、
「人間・大川隆法」を見てるよね。
「宗教」としての幸福の科学でなく、
(どのような教えを説き、どのような理想を持っているか)
「組織」としての幸福の科学を見てるよね。
(どのようなシステムがあり、自分の意見や利益が尊重されるか)
家庭問題があったからとか、
前世判定がコロコロ変わるとか、
そういうので揚げ足取ってあーだこーだ言う方いますが、
それってマスコミの見方と一緒なんですよ。
信者は、「法」を勉強するから信者なのであって、
(法を勉強しなければ仏の御心は分からないので、教学しない人が「信じてます」と言ってもそれは「信仰」ではない)
支部の人間関係や指揮系統がどうだとか、
大川総裁のプライベートがどうだとか
そういうのにばかり関心を向けて教学を疎かにしてるのなら、
それは単なる批評家であって、
「信者」ではないし、
「信仰」ではない。
「信仰捨てました」って言うけど
それ、はなから信仰持ってなかったから。
捨てたも何もあなた最初からただの批評家だったのでは?
って思ってしまう。
ちょっと辛辣すぎ?
いやでも、
ちゃんと教学して、
ちゃんと研修受けて、
ちゃんと心の修行を進めていれば、
少なくとも「大川総裁の説いている法は100%真実」ということが分かってくる
と私は思うのです。
修行が進めば
霊体験(悪霊系でなく、インスピレーションや奇跡体験の部類)も多くなって、
「ああ、本当にあの世はあるのだ。守護霊はいるのだ。天使が指導してくれているのだ」って
実感として分かってくる。
心が修練されるにしたがって、
周りの人間関係や仕事関係も良くなってくる。
「植福」「お布施」に疑問を持つ人もいるけど、
お金についても
「ああ、出したと思ったらちゃんと入ってくる」
「自分が豊かになるかどうかは心の問題であって、宗教にお金をたくさんつぎ込んだら貧乏になるという世間の見方こそが間違いなのだ」
ということも、
ちゃんと大川総裁の説く法に従って生きていたら分かってくるし、
実際、豊かになってくる。
(※幸福の科学が他の宗教と違うのは、「富の法」が説かれていること)
えっと、
あの、
教学してますか???
食わず嫌いしてませんか???
「本読んだ」で終わって、
それについてしっかり思慧し、実践し、反省し、再実践し…
っていうのをすっ飛ばしてませんか?
「仕事・経営系の経典、あるいは富系の経典読んでるけど、全然良くならん」
A. それはね、あなたがちゃんと理解してないからよ
てか、根本が多分自己中思考で、それが仏性を曇らせていて、主のお言葉が素直に入らないんでしょうね。
「愛は見返りを求めず与えるもの」
これさえ分かれば話は早いのにね。
「ギブアンドテイク」という世間の風潮、思い込み、全部まず捨て去って。
「霊言ばっかして、中身がない。イタコ芸」
A. えっと、仏教系の経典よんだ?
『永遠の仏陀』『仏陀の証明』『釈迦の本心』『沈黙の仏陀』『悟りの挑戦(上下巻)』『心の挑戦』読んでからまた来いよ
研修行って
参究の時間、
あれこれと「思慧」してるつもりでも、
単なる「グルグル思考」で、
本当には「考え」られていない人、多分結構多い。
なぜグルグル思考になって、
「解決」に至らないかと言うと、
潜在意識に住み着いた「間違った価値観」「歪んだ考え方」が邪魔をしてるからです。
それに気づいて、邪魔してるものを取り去れば、
心の中に必ずある「仏性」、すなわち、主エル・カンターレと繋がっている部分に行きついて、
「こ、これか―――――っっっ!!!」
って因果がパーッと分かって、
過去・現在・未来が見通せて、
「現在出てきている問題」の原因が根っこから取り除けて
あっという間に解決
→ココロスッキリ
→「法」のあまりのすごさにガクガクブルブル
→主に感謝感激雨嵐
になるんですけどね。
だからこそ「法」への確信が出てきて、
信仰が深まって、
「やはり、大川総裁の説く法は心の世界を網羅し、大宇宙を貫く普遍の教えである」と分かってくる。
このプロセスこそ大事で、
入会・三帰して、
「一生懸命本読みました」
「一生懸命献本しました」
「一生懸命地域を回りました」
「一生懸命お布施しました」
というだけでは、
(注:形だけではという意味)
幸福の科学のことは分からない。
大川総裁の偉大さは分からない。
もちろん活動を頑張られたことは尊い。
総裁先生は、全人類救済を願っているので、
あなたがした活動で、誰かが真理に触れて、救われているのなら
主はそれを評価してくださる。
だけど、
その「全人類」の中に「あなた」も入っていて(←大事!)
あなた自身が
本当に「法」に触れ、
自分の仏性を発見し、
心底「ああ、幸せ!!!この世界はなんて愛に満ちているんだろう!!!この世界を創ってくださった神様、ありがとうございます!」って思えないのなら、
「あなた」はまだまだ自分を救えていなくて、
主エル・カンターレに出会えていない。(←大事!)
信仰を捨て、エル・カンターレを否定しているつもりでいるかもしれないが、
そういう人はエル・カンターレに出会ってもいないので。
はっきりここは言っておく。
ちゃんとエル・カンターレに出会っているなら、
(意味:ちゃんと法を学び、実践し、悟りを深め、絶対幸福をつかんでいるなら)
そのつかんだ幸福(創造主に出会えた根源の喜び)を手放すわけがなく、
それは肉体としての大川隆法総裁が生きていようが死んでようが復活しようが復活しまいが同じで。
自分が病気になろうが不幸があろうが倒産しようが一文無しになろうが同じで。
本物の信仰っていうのは、
そういう外部的な要因で揺らぐものではない。
法に出会った喜びがあり、
この世界の真実に出会った喜びがあり、
本当の自分(仏の子としての素晴らしい自分)に出会った喜びがあり、
その自分を創り、限りなく愛してくださる創造主に出会えた喜びがあって、
どうして信仰が捨てれようか???
そして、人間心の批評なんてどうしてできようか???
(批判するならまず大川総裁を超える法を説こうね)
騙されていたって、
大川総裁の説く「法」は本物なので、
騙されてもいいくらいで。
(ちょっとした方便で以前言っていたことが変わったり、教団内の世間体が悪いことを隠したり、組織がうまく機能しなくて不和があったり、そういうの色々含む)
大川総裁は神でも、今は肉体を持って「人間」として生きておられて、
そして総裁の周りにいるのはみんな未熟な人間たちなので、
そりゃ、色々あるでしょう。
完璧にはいかんでしょう。
(以下蛇足)
「いや、完璧であるべきだ」っていう人は、多分「両親反省」を受けたらいいのでは?
「親は完璧であるべきだ」っていう思い込み刷り込まれてるよ。
それで「昔こうしてくれなかった・ああしてくれなかった」「自分の望む形での愛情表現をしてくれなかった」っていう欲求不満あるでしょ?
「親だって人間で、未熟で、完璧ではない」って分かると人生変わるよHoooooo!
(蛇足以上)
だから、「法を見よ」なんですよ。
法を見ないと、揺らぐんですよ。
仏法真理を、この世界の法則を、
心底魂が実感を持って感じていないと、
「人間としてのうまくいかない部分」「組織としてのうまくいかない部分」に引っ張られちゃうんですよ。
長くなったのでもう終わります。
結論:本物の教学をしませう
以上~
※あくまで私見です!鵜呑み厳禁!
「めっちゃ厳しいにゃん」ってかたはポチ
「汗が止まらない」という方はニャオ