『ビリーブ・イン・ミー』研修の気付き➁ | 威風堂々

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幸福の科学の信者たつとらのお笑い脳が抑えきれないブログ。

ハローハロー

 

たつとらですウインク星

 

 

 

先日受けた

 

『ビリーブ・イン・ミー(Believe in me)』研修の気付きを

 

つらつらと書き連ねていくシリーズ第2弾です。

 

 

 

脈絡もなく

 

思いつくまま、

 

受け取った言葉のまま

 

書いていくので、

 

途中で人格や口調が変わったり

 

急に違う話を始めたりしますが

 

ついてきてください。ただ、ついてきてください。←コラ

 

 

 

 

➁地球神としての証明

 

 

 

公案第2則でちょろっと

 

世界伝道についての言及があるんですけど、

 

「戦闘開始」っていう言葉が使われてて。

 

 

 

でも、思ったのが、

 

総裁先生の言う「戦え」って、

 

信じない人と戦えってことではないのですよ。

 

 

 

総裁先生が説法で

 

「戦え」ということを言われるとき、

 

戦う相手というのは、

 

己の弱い心、怖れる心、怯む心であり、

 

偏見や迫害に簡単にやられてしまわないようにという意味での

 

「戦え」なのですよ。

 

 

 

決して、異教徒と戦いなさいということではないのですよ。

 

 

 

それを思ったときに、

 

「え?そういや主エル・カンターレって異教徒をも愛する神なんだ!ポーン

 

ってものすごくハッとしたわけです。

 

 

 

これって、実はすごいことで。

 

 

 

私たち日本人は、

 

割と色んな宗教を受け入れる文化なので、

 

「異教徒」に対して特に積極的悪感情を抱くことは無いじゃないですか。

 

 

 

また、幸福の科学で学んでいると、

 

主エル・カンターレが神々のトップで、

 

主がそれぞれの教祖を地上に遣わして色んな宗教が成り立っていることを知るから

 

ある意味「主がすべての宗教や民族を愛するのは当然」というか、

 

そこに何か違和感を感じることってなかったわけで。

 

 

 

でも、よくよく考えると、

 

「異教徒を愛する」

 

ここれってすごいことなんでわ!???

 

 

 

私は最近頑張って「聖書」をちょっとずつ読んでいるんですが。

 

 

 

どれくらい頑張っているかというと、

 

2022年当初「年末までに聖書を読破する!」と目標を立てて

 

2022年末「来年は絶対読破する!」と再度誓ったくらい頑張っているんですが←

 

ちなみに現在旧約聖書の「イザヤ書」あたりです真顔(まだ半分も行ってないOMG!)

 

 

 

まぁそれは置いておいて、

 

要するに、

 

旧約聖書を読んでいると、

 

ユダヤ教、キリスト教、そしてそこから派生しているイスラム教の

 

根本にある思想が分かってくるわけで。

 

 

 

旧約聖書の神はね、

 

はっきり言っているんですよ。

 

 

 

「異教徒は殺していい」って。

 

 

 

とにかく自分以外の神を信仰するとめっちゃキレる。

 

「滅ぼし尽くせ」って言う。

 

「女子供も容赦するな」って言う。

 

「(土地や財産を)奪い取れ」って言う。

 

 

 

要するに、

 

旧約聖書の内容が刷り込まれていると、

 

「他の神を信仰するやつには何してもいい」

 

ってなってしまうんですよ極端な話。

 

 

 

実際、それで十字軍とか黒人奴隷化とかインディアン殺戮とかが起きているわけで。

 

現代においても、ヨーロッパに流れ込んだイスラム系の難民が

 

「異教徒には何してもいいから」と、犯罪事件を起こしまくっているわけで。

 

 

 

「異教徒を愛するなんてとんでもねぇ。〇ね」

 

これが基本、これが欧米世界のスタンダード。

 

 

 

そのなかで、

 

大川隆法総裁先生は、

 

いつもなんと仰っているか、

 

思い出してみてください。

 

 

 

「私は人類を愛しています」って言っているんですよ。

 

 

 

「キリスト教徒も、イスラム教徒も、仏教徒も愛しています」って言ってるんですよ。

 

 

 

「私を信じていない人をも愛しています」って言って以下略。

 

 

 

 

 

 

 

 

これが、地球神の証明でなくてなんなんだろうか???泣くうさぎ泣くうさぎ泣くうさぎ

 

 

 

 

 

 

 

一神教をうたう宗教がいくつかある。

 

自分たちの神こそただ一人の神であって、全世界をつくった神であると言う。

 

だけど、全世界をつくり、すべての生命をつくった神だというのなら、

 

その神自身が生み出したものであるはずの異教徒をなぜ愛さないのか。

 

なぜひどい目に合わせてよいというのか。

 

 

 

仮に道を外れた人類に対する罰として

 

神自身が信仰しない者を罰するならまだしも

(実際に天変地異等による人類への罰はある)

 

なぜ人間に「異教徒は殺してもよい」と言って

 

人間自身にひどいことをやらせるのか。

 

 

 

信じない者には罰がある。

 

しかし、それはゆえに」でなくてはならないはずで、

 

神が「信じないことへの憎しみゆえに」人間を罰するのなら、

 

それはもう愛の神、慈悲の神ではないのだ。

 

 

 

聖書においても、コーランにおいても、

 

神は慈悲深い神として讃えられている。

 

 

 

だとしたら、

 

「異教徒に対して一切の愛がない神」というのは、別物の神ではないのか。

 

どこかで愛の神信仰の中に

 

違う民族神信仰が混じりこんでしまっているのだ。

 

 

 

 

 

 

要するに、何が言いたいかというと、

 

主エル・カンターレが「全人類を愛している」と仰っているのは

 

グローバルな目で見たら、

 

他の宗教の信者がびっくりして飛び上がってしまうくらいにとんでもないことで、

 

「私を信じてない人をも愛しています」なんてもう

 

衝撃の一言で、

 

魂がガクガク震えてしまうお言葉なのではないかということです。

 

 

 

キリスト教やイスラム教に対して伝道するときに、

 

「主エル・カンターレが地球神である」ということを伝えるにあたって、

 

「旧約聖書では異教徒は殺していいと書かれている。

 

けれど、それは本当に慈悲深い神の言葉だろうか?

 

エル・カンターレは私を信じていない人をも愛していると仰っている。

 

これこそ本物の地球神であり、愛の神なのだ」

 

という弁を論じるのはどうだろうか。。。

 

と、ちょっと考えました。

 

 

 

 

やはり、何を伝えるべきか?というと、

 

「エル・カンターレの愛」を伝えるべきなんだと思います。

 

 

 

 

そして、重要なのは

 

そのエル・カンターレの愛を、

 

伝道する者がどれほど実感しているかです。

 

 

 

「説法でこう言われている」というのではなくて、

 

日々、自分が与えられているもの一つ一つに感謝し、

 

主の愛を発見し、涙し、感動し、感謝する日々を送れているか

 

なのです。

 

 

 

生かされている自分、

 

主の愛に囲まれている自分、

 

主の愛の中に生きている自分。

 

 

 

そして、主の愛によって生み出された他人、

 

主の愛によって創られた世界、

 

主の愛によって生じるあらゆる出来事。。。

 

 

 

そういう認識が、どれだけできているかなんだと思います。

 

 

 

国内伝道でも、

 

世界伝道も結局同じ人間相手。

 

愛の前にあらがえる人間などいやしない。

 

愛はすべてに勝り、

 

すべてを解決する。

 

 

 

人と人との間に愛はあり、

 

「私」と「あなた」のあいだにポッと

 

愛の灯をともすだけ。

 

 

 

「戦う」のではなくて、

 

「愛する」のであり、

 

「主の愛を届ける」のが伝道なんです。

 

主の愛を届けることで、

 

相手の心に灯をともし、

 

相手を憎しみや悩みから自由にするのが伝道なんです。

 

 

 

 

 

 

 

もっと主の愛を感じていこう!よだれキラキラ

 

 

 

 

 

 

③に続く

 

 

 

 

 

 

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