こんにちはたつとらです![]()
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タイトル見てびっくりされた方、ごめんなさい。
順を追って説明させてくだぱい。
まず、ここからご報告させていただきます。
ワイ、聖書全部読んだ。
旧約、新約ともに読んだ。
3年かかった。
サボりにサボって3年かかった。
石の上にも3年、聖書読むのに3年。
サボらずに読めば多分1年で読めるかもしれんけど、
昔から言うじゃん?「聖書読むのに3年」って
←存在しない記憶
まぁとりあえず、
「意味分かんねぇ」と思いつつ頑張って読み終えたわけです。
そこで、
気になったというか、
引っかかった言葉があって。
それが、
新約聖書『テモテへの手紙』(fromパウロ)です。
『テモテへの手紙 一』2章11-15節のこの部分。
↓↓↓
11 女は静かに、あくまでも従順に学ぶべきです。
12 女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。
13 なぜなら、アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
14 また、アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました。
15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます。
(「テモテへの手紙 一」2章11-15節)
ここを読んだとき、私はこう思いました。
ぶっ〇ばすぞ。
ひぇ、物騒。
いや、でも、本当に。
ど〇きまわすぞと思いました敬具。
で、「パウロ許すまじ」ってわけです。
お判りいただけたでしょうか
キリッ
現代女性がここを読んだら、
だいたいは「はぁ?
」って思うんじゃないでしょうか。
10人くらいでパウロ囲んで鼻フックじゃないでしょうか。
例えクリスチャンだとしても、「はぁ?てめぇ何様だよ
」って思うんじゃないでしょうか。
で、真面目な方ほど、
「ハッ!これ言ってるのパウロ様じゃん…。え?ということは何?これって正しいの?女性は男性に従わなきゃいけないの…?」
と信仰と自分の感情との葛藤に悩むのではないでしょうか。
いやでも
びっくりだね。
パウロさん、こんなこと言ってたんだね。
フルボッコだね。
でもね、
この『テモテへの手紙』のあと、
ペテロが書いた『ペトロの手紙』があってね。
ペテロさんはこう言ってるんすね。
1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。
2 神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです。
3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りを身に着けたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく、
4 柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の御前でまことに価値があることです。
5 かつて、神に望み置いた聖なる女たちも、このように装って、夫に従いました。
6 例えばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に従いました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの子どもとなるのです。
7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
(『ペトロの手紙』第3章)
パウロ、ペテロの言説、両方ともに、夫婦のあり方を説いたものであり、
同じく「妻は夫に従え」と言っているわけではありますが、
しかし、そこに決定的な「違い」があるのがわかるでしょうか。
もちろんこれは「訳」であって、
原文がどんなニュアンスを持っているかは分かりません。
聖書の邦訳も色々あって、比較してみると、まったくニュアンスが変わってくる訳がいっぱいあるので。
だから、これはあくまで私が読んだ邦訳に対しての、
あくまで私のフィーリング、感覚ですが、
パウロは、女性蔑視が感じられます。
彼は、知識人であり、ユダヤの学者だったからです。
熱心なユダヤ教徒であり、
旧約聖書を隅から隅まで読んでどっぷり浸かってた人だったがゆえに、
「旧約の考え方」を踏襲しているように思います。
明らかに、「女性は男性の下」と見ています。
対して、ペテロは漁師であり、
学者的な知識はなかったと思われます。
パウロは旧約の記述を引用しており、
表面的に「女性はこうあるべき」論を展開しており、
そこに、女性の幸福を考える思考はないようです。
子を産むことで救われるってじゃあ男はみんな救われんなぁ子が産めねぇからなぁ
対してペテロは、同じく「夫に従え」と言いつつも、
女性として内面の美しさを心がけるように教えており、
女性の魂の成長を考えていると見受けられます。
そして、女性の振る舞いによって男性に反省を促せるんだと言っています。
女性が信仰に基づいた行いをすることで、男性に教えることができる。
どっちかというと、これ、「従うように見えながらも精神的主導権はあなた(女性)にある」とも取れます。
また、女性にだけでなく男性へも戒めを説いており、
「女性を尊敬せよ」とまで言っています。
要するに、「夫が妻を大切にしてこそ、妻が夫に従うのだ」ということです。
パウロは、女性にのみ「こうあるべき」と求めており、
これはもう、
「ぶっ〇ばすぞ」としか言いようがありません。←野蛮な結論
あとね、これって、
「イエスの教えを直接聞いたかどうか」にもよるのかなと感じました。
ペテロは「イエスを知らない」と3回言ったけれども、
イエスと同時代に生き、イエスに直接教えを受けた直弟子です。
対してパウロはイエスの死後の人物。
元々キリスト教徒を迫害していましたが、
イエスの声を(霊的に)聞き、奇跡を経て回心しました。
すなわち、パウロはイエスを直接知らないのです。
イエスが生きているうちに直接教えを聞いたこともなければ、姿を見たこともない。
そこに決定的な差があるのではないかと思います。
もし、イエスの行いや言葉を直接に知っていれば、
イエスが女性に対して優しく、まったく差別的考えがなかったことが分かるでしょう。
イエスが見ていたのは、性別や、「妻」「夫」という立場、まして職業などではなく、
ただただ「信仰があるか」「心が美しいか」のみです。
そういうイエスの姿を直接知っていれば、
きっとパウロはこんな考え方はしなかったのではないかと思います。
幸福の科学においても、
総裁先生は「後世の人たちの方が本当のエル・カンターレを信仰する」と仰っていますが、
やはり、同時代に生き、主の言葉を直接聞き、そのお姿を見た私たちは、
「主はこのように仰った。このように振る舞われた」というその姿において、
「人としてこうあるべき。こう考えるべき」というものが焼き付いていて、
後世の、主に会ったことがない人々とは違う「宝」をいただいているのではないかと思います。
「直接見た」「直接聞いた」「直接会った」というのは、やはり強い。
そう思いました。
ちなみに。
イエス自身が「夫婦はこうあるべき」と説いた教えは私が探す限り特に見当たらなかったのですが、
『マタイによる福音書』19章にこのような一節があります。
3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは、許されているでしょうか」と言った。
4 イエスはお答えになった。「あなたがたは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
5 そして、こうも言われた。「こういうわけで、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
6 だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
(『マタイによる福音書』19章3-6節)
そうです。
イエスは
「男女は平等」であり、「等しく神のもとに作られた存在」であり、
夫婦は「一体」、すなわち、どっちが上とか下とかじゃないのだ、
という考えなわけです。
ここで、再度女の敵パウロの言説を見てみましょう。
11 女は静かに、あくまでも従順に学ぶべきです。
12 女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。
13 なぜなら、アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
14 また、アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました。
15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます。
(『テモテへの手紙 一』2章11-15節)
これ、分かるでしょうか。
パウロは全くの勘違いをしているということを…!
イエスは「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」という認識。
パウロは「アダム(男)が初めに造られ、それからエバ(女)が造られた」という認識なのです。
これは、本当に理解すれば、キリスト教の世界観を揺るがす事態です。
なぜこんな齟齬が起こっているかと言うと、
旧約聖書の『創世記』に、
「二重の人類創造」の記述があるからなのです。
『創世記』第1章27節では、
「27 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」と書かれていますが、
その直後の『創世記』第2章21-22章では
「21 神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。
22 神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れてこられた。」
とあります。
すでに、第1章で男女を造っているのに、第2章でまた造っているんです。
これが、後世のキリスト教者を惑わせている「二重の人類創造」問題なわけです。
でも、答えは明白ですね![]()
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イエスは「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言っているわけですから、
イエスは「第1章の記述が正しい」と思っているのです。
(しかも、「(聖書を)読んでないのか?」と煽っているw)
イエスを教祖とし、イエスの教えが正しいとするキリスト教であるならば、
「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」、
すなわち「男女に上下はなく、平等に神に愛された存在である」という考えを選択し、
パウロの言説を退けなければならないところです。
第2章の記述はどうやら、
メソポタミア辺りに入り込んだ宇宙人が行った「人体実験」の歴史が入り込んでいるようです。
(「エンリルの霊言」参照。大川隆法著『「宇宙の法」入門-宇宙人とUFOの真実-』や『神々が語るレムリアの真実』を読んでみそ)
人間を奴隷に考えている宇宙人の思考が入り込んでいるので、あまり信じすぎるとよろしくない。
本当に人類を造ったのは「愛の神」であり、
その愛の神(イエスが「父」と呼んだ存在)も、イエス・キリストも、
一貫して「汝ら互いに愛し合え」と説いています。
どっちかが支配したりされたりの関係を説いたことはありません。
性別や、人種、国籍、宗教、その他諸々関係なく、
お互いに理解し合い、調和し合い、生かし合って、
この地球の上で「共存」する。
それが神の御心です。
世界中の様々な「教えの解釈」がありますが、
「その解釈に愛はあるか?」で考えたら、一発で分かります。
「愛なき者は神を知らず」
いくら信仰を唱えようとも、愛なき者は、神と対極の存在です。
ということで、
パウロ、猛省しろ。
おわる。
注:パウロ様はその信仰心と語学力でキリスト教の伝道に大いに活躍した方であり、彼なしにキリスト教は語れません。大天使です。
この記事は『テモテへの手紙』の「夫婦の教え」についてのみ異議を唱えるものであり、私自身はパウロ様を大伝道師として見習うべき存在と考えています。誤解なきようお願いいたします。
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