以前にテレビで九州の高校でニワトリを卵から生まれる段階から見守ってヒヨコを家で育てて成長させて
最後は学校で調理して食べるという授業のドキュメンタリーをやっていた

可愛がって育ててるから、その実習をしてる学生はニワトリを殺さなければいけない時に泣いていたが

自分なら可愛がっている動物を殺すなどは絶対に無理なので、食べる為に学校へ連れて行かないといけないって言われた段階で不登校になると思う…

いや、真剣に学校を辞めてでも殺す事はしないと思う

もし学生の立場で家族が反対するのならニワトリと逃避行さえすると思う

もし無人島で飼ってる家畜(ペット)だけで取り残されて

その動物を食べなければ自分が生き残れないとしたら

迷わず
動物は殺さず自分が飢えて死ぬ方を選ぶ

自分は農業関係の実習の延長で酪農の経験もあるが、
長年酪農しているそこの親父さんはビニールホースを切った棒状の物で牛の尻をペシペシ叩いて歩かせたりしていたが
自分は牛舎での作業や搾乳なりでは
牛に対して「おはようさん」
とか
搾乳が終わったら一頭一頭に
「ありがとうな」とか「お疲れさん」と声をかけたりしていた
牛を誘導する場面でも
叩くとかはなく
牛の背中に手をおいて

乳牛はある意味女性なので
「おねえさん歩いてな」
と声をかけて誘導したりしていた

家はマンションなので犬猫は飼えないのだが、家にはインコがいるので
鳥達に話しかけるとかは普通である

マンションだと夏の終わり頃にはコンクリートの通路でひっくり返っているセミなどを見かけていたが
虫などがコンクリートの上で無残に踏み潰される光景は嫌なので、
セミの場合は足を開いてひっくり返ってるとまだ生きている場合が多いので
指をその間にそっと出してやると
しがみついてくれる

その時に

「こんな所で終わるな」

と話しかけて

「もう少し頑張れ、お前はやり残した事はないか?
こんな所じゃなく、せめて最期は土に還る方が良いだろ?」

と近所の緑がある場所まで送り届ける事があった

かといって虫も殺さぬ温厚で完璧な善人までいかないと思うし、
今の食肉文化で肉なども食べるのだが
自分の手で動物を捕まえて殺して食べるという狩猟民族の系統の血ではなく

自分は殺生を好まない典型的な日本の農耕民族タイプだと思われる

おそらく表面的な主張に対してある種の矛盾を感じる人もいるだろう

確かに今の生活で肉とかを食べてはいる

でももし自分で育てたり捕まえて、それを殺して食べる行程をしないといけないとしたら

はっきり言って肉食はせずにベジタリアンにでもなると思う
そういえばあのマイク・タイソンなんかも思うところがあってベジタリアンになったそうです


テレビで競馬中継をしていて、自分は動物好きだしアニマルセラピーの勉強の一環で馬にも乗った事があるが、競馬は嫌いだ…
走らされる為に育てられてレースでは鞭打たれて…
生き物には一生のうちに心臓の鼓動の回数というのは数値としてのデータも出されていて
激しい運動をすれば心臓に負荷がかかり鼓動は増える

人間のスポーツ選手が自発的に選んで心臓に負荷をかける競技をして、結果早死にしてもそれはやる側の責任といえるが
競走馬は馬が自発的に競ってまで走りたい訳ではなかろう

それはある意味人間のエゴであり、
動物愛護の観点から見ると可哀想にも思える

テレビつけてたらバイクのレースなどもやっていたが、昔から思うが、ガソリンなどを使う訳だし、移動や運搬の利用でもないから限りある地球資源の無駄遣いである

まぁ技術の向上を目指す事で低燃費やエコも考えていると正当化するだろうが、一部の娯楽として楽しめる人間もいるが
人間の生存に必要かといえば要らないともいえる
自動車やバイク、飛行機や船が物品の運搬などの利用でそれが物の流通になり生きる為に役に立つ事もある

しかしながらレースだとかは「地球資源の無駄遣い」にしか思えない

(実際問題自分が昔たまたまバイクのギアの加工の仕事していたのだが、ギア1つ作るのにも何台もの電力を使う機械を使い、工程によれば水も使う…言うなれば機械の部品を作る為の機械があったり、それに伴う電力需要が必然的にある訳で、その需要に応える為に原子力発電までしたり、水需要の為の開発で湖岸を広げて湖の環境悪化になったなどを考え、当時仕事しながらも人間の営みの中に溢れるエゴと無駄が自然環境や地球を破壊する行為だと憤りしかなかった)

「戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない…」

「いらないものが多すぎる…」
と歌う皮肉や社会に対してのアンチテーゼの歌を思春期から聴いていた自分も今の現代社会の在り方に迎合する事を拒んだタイプだし
世の中で
「当たり前」になっている事が「正しい事」
とは言えないと思うから

前後の「無軌道な自由」を求める結果になった戦勝国であるアメリカにとって日本を都合が良い国にする為に押し付けられた民主主義と
戦後の教育の在り方や
古き良き伝統文化、道徳観念、倫理観や日本人としての誇りを忘れさせる
欧米化やグローバル化は
「クソ喰らえ!」
であるし

宇宙や地球規模で考えると
特に現代文明に染まる人間は資源を食い尽くし、多くの命を奪いながら増殖するパラサイトにしか思えない

故に今の世の中では不満や憤りが多く
考え出すと実にストレスが溜まり

生きづらさすら感じる




痛みを知らない大人(コドモ)は嫌い

アタマをぶつけるまで傷つけるから

今でいったい何を教わって来たの?

自分の血を見るまで近寄らないで



今の世の中を見ると、見た目は成長した大人だけど
肝心な中身が未成熟なコドモみたいな人が多い事が目につく…

学歴があったり、それなりに社会人として働いていても

蓋を開けると中身がスッカラカンの人もいる…
どこかで書いたが
人間というものは最初は「個」の「人」であり、
わがままなエゴなどを持つ

しかし社会性の生き物であり、「個」を「点」とするならば
点と点が結びついて「線」になる
それらの膨大な繋がりで人と人とのコミュニティーが大きくなり、社会が形成されている訳であるが

元々「個」である人が
人の繋がりの中で
相手の立場になって考えたり
人の痛みがわかる想像力や心を育てる事で初めて人の間に立って考えれる
「公」
の精神を持つ事で
「人間」
になりえる

しかしながら今の世の中では先に述べたように中身が未成熟で「個人」
ではあっても
「公心」
が育たず

「人間」
として達していない
見た目だけは大人なコドモ
が多い

彼らは人の立場になって考える事よりもまずは「我が身」
やエゴが強いから
時に人を傷つけるし
人を犠牲にする事もある

彼らは子供の頃からの教育で学ぶべき事を学んでいない

例えば悪い事をしたら叱られる
「叱られるから悪い事をしてはいけない…」

では正解ではない

例えば人を叩いた子供には
「叩かれた相手は痛い思いをして悲しい」

という筋道を論じて

自分がもし叩かれたら痛いし嫌だという事を悟らせて

「自分がされて嫌な事は人にしてはいけない」
という事を知る必要がある

しかし
論理的に学ばずに

悪い事をしたら

親が怒る

学校の先生に怒られる

警察に捕まる…

だからそういう事をしてはいけないという発想だけだと

逆を言うと

「怒られなければ大丈夫」

「バレなければ大丈夫」

「捕まらなければ大丈夫」

というような思考にも繋がる

悪い事にも色々あり
相手に暴力を振るうだとか、
人のモノを盗むだとか

嘘をつく

人の命を奪う…

それをしないのは誰かに怒られるから

捕まるから

裁かれるからしてはいけないんじゃなくて

人間として相手の立場に立ち

自分が殴られたり
モノを盗まれたり
嘘をつかれて騙されたり

仮に自分が死ぬ訳じゃなくとも大切な友達や家族の命が奪われたり…

もしも自分や自分の大切な人がそういう目に遭ったら嫌じゃないか?

悲しくはないか?
という事を考えて
自分がされて迷惑だったり、嫌な事を他人にしてはいけない

という事を根本的に学ぶ必要がある

今の日本の法律では問題ない事でも良くない事は沢山ある

たまに
「他人に迷惑をかけていないから良いだろ?」
と言って正当化する人がいる

薬物だとか援助交際のような売春などの当事者がそういう類の正当化をするが
なら彼や彼女達は自分の親がそういう事をしても平気なのか?
親じゃなくても兄弟や、自分が親になった時に自分の子供が

はたまた子供が子を産み孫が出来た時にその孫がクスリをしたり金や目先の利益の為に安易な性に走ったり
したとして
それでも平気でいられるかを考えてみればいい
世の中は本来点と点を結んで線になれば正常な社会を構成するが
個人主義が蔓延して
人が人間となる為に根本的に必要な「心」を置き去りにして

未成熟なコドモが親になるから
親が子を殺し、子が親を殺す

同じ島国の人間として生まれても意識もバラバラで団結出来ず、貧しき心で他人を嘲笑い
隣人同士がいがみ合う現状があるように思える
昨今のいじめ問題にしても「いじめの定義」
みたいなものを国や行政が決めて採決しなければいけない事自体憂慮すべき事であり

本来、人として根本的に必要不可欠である人の痛みがわかる心を持つような人間を育てている社会なら
今ある多くの問題は起きなかったであろうと思えてならない