私事ですが…
先日、9月4日に父が急逝しました。
本当に私事で,そんなこと知りたくないし。ということを割と赤裸々につらつらと書き綴ります。
小さい頃のことなど書いておりますが、同情してほしい、とかじゃないのです。
ただ、私の気持ちの整理みたいなものです。
公共の場でそんなことすんな!とか、不快に思われる方も多いかも…。
なので「人の家庭の事情なんぞ知りたくないわい!」という方はどうぞここでお戻りください🙇♀️よろしくお願い致します🙇♀️
父の家系は不思議と、男児は心臓が悪くなる家系で、父もご多分に洩れず心臓を患ったのですが、入退院を繰り返し、数年前からは透析も始めていました。
透析の日は具合が悪くなることが多かったのですが,それ以外は割と元気で、焼肉とぶりのお刺身が大好きな人でした。
最近は調子の悪い時が多く,8月1日に肺に水が溜まって苦しくなり、水を抜くために入院,9月3日午前中に退院し,お昼は大好きな焼肉を食べ、夕飯はチャーハンが食べたいと言ったらしく,母の作ったチャーハンを完食、妹から送られてきていた”とらや”の水羊羹までたいらげ,就寝したらしいのですが…。
9月4日の朝、いつもより起きてくるのが遅いなと感じた母が様子を見に行ったところ倒れており、既に冷たくなっていたそうです。
心不全でした。
妹から連絡を受けた時、「あぁ,やっぱりなぁ…」となんとなく思い、びっくりはしませんでした。
8月1日,入院した際にふと,「父はもう長くないのかもしれない」と感じていたからです。
さすがに退院した翌日に亡くなるとは思いませんでしたが、1年、長くて2年持つかなぁ…と感じていました。
通夜、葬儀の際はあまり泣きませんでした。
親族からは冷たい子と思われていたかもしれません。
でも、私の中では、8月に入院した時に覚悟は決まっていたのかもしれないです。
その時にちょっと泣いたので,あまり涙が出ませんでした。
故人のことを悪く書くのは酷い,と仰る方もいるかもしれませんが
父は本当ーーーーに家庭を顧みない人でした。
お金も家に入れず,かなりのモラハラ夫でした。
そして、私はモラハラに合わせ,そんなに酷くはないですが、暴力も受けていました。
まぁ、私が父に反抗的な態度を取っていたのが面白くなかったんでしょう。
妹はそこは要領よく、被害を受けることはなかったのですが…。
あ,母にも暴力はなかったです。
本当に口汚く罵られました。
妹が今でも「あれは酷かった」というくらいに,まぁ,本当に酷い言葉を浴びせられました。
私達姉妹が社会人になった頃、父の浅はかな考えで人に騙されて,家を失いました。
私達は親元を離れ、一緒に住む為に家を出ました。
私達姉妹との突然の別離に、母はしばらく毎晩泣いたそうです。
(けっこう大人になっていたので,母が子離れできていなかったと言われれば
それまでなのですが…。)
私と父の親子関係は最悪でしたので,この時に家を出ず,一緒に暮らしていたらどっちかがどっちかを…なんてことになり,ニュースになるかもしれなかったのでそれはそれでいいタイミングだったんだとは思っています😅
そんなこんなで,父はほとんどクビという状況で会社を辞めざるをえなくなります。
なのに。
父は働くことは考えず、一発逆転を狙ったのかネットビジネスを始めました。
当然上手くいくわけもなく
でもネットビジネスを始めたのは、もしかしたら、クビのように会社を辞め、かなり悔しかった思いしたんだと思うんですよね。それで、一発当てて見返してやりたい!と思ったのかもな、と今では思います。けど…。
なんでしょうねぇ...。
次から次へと悪事が思い出されます
それでも
やっぱり
父のことを心底憎むことはできない
この不思議
家を失った時,そこそこ大きくなっていた私は,騙した相手を訴えるべきだと父に進言しました。
しかし父は「騙すより騙された方がいい」と訴えることも,お金を請求することも
ありませんでした。
後に母から聞いた話では,騙した奴は子どもが生まれたばかりで,そして子供さんが身体が不自由ということもあり,お金がかかる,奥さんと子供さんには罪はないからかわいそうだ,と言っていたそうです。
確かにそうですが…
私達家族はかわいそうじゃないんかい
とは思いましたが,なんかなぁ,父らしいなとは思いました。
根は悪い人ではなかったんです。
地元ではちょっとボンボンだったので,世間知らずで人が良かったのかもしれません。
父は母親の愛情を知らない人でした。
二男なのですが,本当に愛情をかけられず育ったようで,長男ばかりが可愛がられる状況を体験し,妹婿の方がお前なんかより大切だ,と言われたこともあったそうです。
父の家族関係は,私の幼い頃を思い出しても,希薄な家族関係だったよなぁと思います。兄弟間のやり取りがなく,親族が疎遠になってしまっていたり…。
ちょっと不思議な家族関係…。
まぁだからモラハラしても暴力しても許されるもんじゃないですがね。
そして,不思議とそういった関係は繰り返されるんでしょうか。
きっと父は「家族」「家庭」というものが,どういうものだったのかを知らず,家族への接し方,私達への愛情の表し方がわからなかったのかもしれません。
父は「家族なら当たり前」という言葉をよく言う人でした。
そんな無茶なと思うようなことでも,家族ならば当然,当たり前,何もかも許してくれる,と思っているような節がありました。
何かの際に
「家族とはいえ,所詮は血が繋がってるだけの他人なんだよ!なんでも許されると思うなよ!!」
と私が言い放った時,本当に,心底驚いたような顔をして「そんな冷たい子だとは思わなかった…」とショックを受けたように言ったのを覚えています
今考えれば家族を知らない父は「家族にはそうして欲しい」という理想があったのかもしれないですね。
ほんとにどうしようもない夫で,父でしたが”悪人”ではなかったと思っています。
亡くなった当日,父の知り合いから偶然母に電話があり,父が亡くなったことを伝えると「妻には苦労をかけたから,これからは楽をしてほしい」と柄にもないことを
言っていたそうです。
母は,今回の入院で,父が退院したら「翌日から本格的に介護だな」と覚悟をしていたようで,知人からその言葉を聞いた時,「私に苦労をかけないように旅立ったのかも」と思ったそうです。
本当にそうだと思います。
どんなに苦労をかけても,何も言わずついてきてくれた母を,父は本当に信じ,
愛していたのだと思います。
自分の母親から受けられなかった愛情を母に求めていたのでしょう。
多分…。
なんだかんだいって、母も父を愛しているんでしょう。
長年連れ添った夫婦ですから、子供でもわからない絆があったでしょう。
母が父のことを悪く言わないのなら、子供の私達がなんと言っても、母は幸せだったんだと。(他人様から見たら、まっっったくそんな風には見えないけど…。)
最期は本当に眠っているように安らかな顔でした。
苦しまずに旅立てたのだと思うと,それはそれで良かったなと思います。
まぁほんと酷い父親でしたが,父と母がいなければ、出会わなければ、私はこの世にいなかったわけで。
そう考えると感謝ですね…。
いい父親ではなかったですが、妹の子供達を本当に本当に可愛がり、良いおじいちゃんではありました😌
なんでしょうね。
通夜、葬儀では泣かなかったのに、今書きながら涙が出ます。
父に言えなかった色々なことをこうやって文章で書くことで、吐き出せたような気がします。
酷いこと言われたし、仲は良いとは言えなかったですが、
それでも、もう会えないと思うと寂しいのかな…。
不思議です。
もうしばらくはこの気持ちと向き合って、味わって、きちんと消化しなければな、と思います。
おとうさん、ありがとう。
どうかおかあさんを見守ってあげてください。
あと、あっちでぐりぐりに会ったらよろしく伝えてください。
ぶりのお刺身は無理だけど、お仏壇には、とらやの羊羹、あげときます。
あと、大好きな桜島の写真もあげときます。