Apollo-12 -2ページ目

Apollo-12

広告とか、コミュニケーションとか。
社会貢献とか、社会起業とか。
まちづくりとか、コミュニティデザインとか。
そうしたものたちの、少し先とか横の話。

最近、話題の2つの映画を観た。

「クラウドアトラス」と、「横道世之介」。
そこから感じた、現代の"人生観"や"善意"の在り方についての覚え書きメモ。

もしまだご覧になっていない方がいらっしゃいましたら、
絶賛ネタバレになるのでご注意ください。。



まずひとつめが、「クラウドアトラス」


映画史を変えるためにつくられた、
という前フリもあって、かなり前から期待していた映画。
(予告編が5分で、観ても内容がよくわからないという...笑)

かなり乱暴な説明をしてしまいますが、人類の歴史からみて、過去、現在、そして未来と、
そこで起こる様々な「大きな出来事」での「小さな善意」が積み重なっていって
世界が出来ていくのだということを、すごいスケール感と構成で語っていく映画。

最終的にはなんとかうまくまとめたなー、
という、わりと微妙な印象でしたが。。


この作品を通して伝えたかったメッセージは、
「小さな善意が、人生を、そして世界を変えていく」と感じましたが、
それについて、もっと別の方法で語るとどうなるのかが気になっていた。

というのも、語り方がアメリカ的というか、
あまりにも話が大きく、映像美や細かな表現のテクニックにばかり注目がいってしまって、
「小さな善意が、誰かの人生を、そして世界を変えていく」というメッセージがかすれてしまっていた気がしていたから。


でも、このテーマ自体は普遍性があり、かつ共感性も高く、
さらには人間や社会にとって残す価値のあるメッセージだったから、
「じゃあどうすれば伝わるのか?」というところがずっと引っかかっていて。


そこで今日、たまたま友人に誘われて観た「横道世之介」に、
その日本らしい答えのヒントが散りばめられていた気がしたのでした。

「横道世之介」


この映画は本当に淡々としていて、
たしかに設定に多少の飛び方はあっても、ドラマチックな大きな出来事もなく、
丁寧にひとつひとつの事実が、とてもうまく時間軸をずらしながら語られていく。

世之介の母が、世之介と蚊、そして寝転がる父と、順番にウチワではたくシーン。
夜の公園で、世之介が加藤とスイカを分け合うシーン。
世之介と祥子がクリスマスのクラッカーを鳴らすと、紙くずがクラッカーに入ってしまったことにはしゃぎ合うシーン。

もう挙げれば切りがないくらいに、丁寧に丁寧に語られたそれらのシーンは、
とても自然で、生っぽくて、嘘偽りのない「事実」に思えて、
だからごくごく当たり前に物語に没頭して、彼らと同じ時間を生きていた心地がしました。
(よく知りませんが、アドリブを活かした演技も多かったみたいですね。)


そして印象的だったのが、
時間軸をずらして昔と、今と、交互に世之介の"生き方"が語られていく、
その見せ方と描き方、そしてそれを通して伝わったこと。


例えば、世之介が最初に入学式で出会った倉持という同級生が、
大学を辞めて引っ越す際に手伝ってくれた世之介に語った「娘を大切にする」という言葉と、
ずっと後になって、中学生になった娘が青年と駆け落ちしようとするのを必死で抵抗する、現代の倉持の姿。

しかし、現代の彼は横道世之介という人間の存在自体を忘れかけていて、
久々に彼のことを思い出したかと思うと、クスクス笑っている。


例えば、あれだけ一緒に過ごした恋人の祥子は、現代では世界中を旅する人になっていて、
彼と別れてずっと後になって世之介の訃報を聞き、送られてきた写真を見つめるシーンや、
友人の子どもに行儀の悪いハンバーグの食べ方を教えるシーン。

ここの見せ方は本当に秀逸だと思いましたが、
彼女もまた久々に世之介を思い出しては、目に涙を溜めながらもタクシーの中で微笑む。
ちなみに世界を旅するようになったのは、昔長崎で世之介とベトナム難民の子どもに出会ったからだろう。
いうまでもなく、ハンバーグをハンバーガーにして行儀悪く食べるシーンは、世之介と初めて出会ったことを思い返してのことだろう。


例えばこれらのシーンを思い返しながら、この映画の根底に流れるメッセージもまた
「小さな善意が、誰かの人生を、そして世界を変えていく」
だということに気がつかざるを得ない。

しかし、クラウドアトラスと決定的に異なるのは、
横道世之介の中で語られるそのメッセージには、ある種の「諦め」も含まれていること。
それが丁寧に丁寧に、世之介の生前・死後で語られていく様が、とても日本的だということだと思った。


クラウドアトラスでは、結局のところ、
「あなたという存在は世界の主役の一員です」という意味合いが強く、
ひとりひとりが世界を変える、大きな力を秘めているかのような文脈で語られていく。

一方で横道世之介はというと、たしかに彼の持ち前の人柄の良さと善意で、
様々な人たちの人生に影響を与えた。
それは、娘を大切にする倉持、世界を旅したり子どもに行儀の悪い食べ方を教えたりする祥子の姿を見れば明らかである。

しかし、倉持や祥子は、たった10年ほど前のことなのに、
世之介という存在自体を忘れかけてしまっている。

そこには、
「あなたは誰かの人生に影響を与えうるが、かといって感謝され続けるほどでもないし、せいぜい思い出してもらえたらラッキー程度である」
といった具合の、ある種の「諦め」にも似た余韻が残った、気がしました。


誰かと出会い、触れて、影響し合うこと。
それは決してないがしろにできないが、かといって過大評価もできない。
今、当たり前に自分の目の前にいる友人とだって、いつ別れるかわからないし、
少し後になって思い出してもらえるのかも怪しかったりする。

たとえ他人の人生を左右するような影響を自分が与えたって、
自分という存在は、みんなの心の中に生き続けることはできない。
それでも、「そんなもんだよ」といいながら、生きる。生きていく。

そうした、「諦め」の向こう側にある「自己肯定」に手を伸ばしたくなるような、
そんな気持ちにさせられた映画でした。
たまには自分のこと、思い出してもらえるくらいには誰かに優しくできてたかなぁ、
と、自分の生き方について考えさせられた映画でした。

同じようなテーマ・メッセージを扱うのでも、日米でここまで差が出るかと。
(いや、そもそも見当違いな深読みの可能性は、十二分にあるのですが。。)


日米間の感じ方の違いを超えて、今の時代のインサイトを浮き彫りにするような、
そんな大事なヒントがどこかに隠されているように思います。



そしてやはり、横道世之介で描かれたような日本的描写にこそ心打たれ、
それと同時にこのテーマ・メッセージの伝え方を思案していただけに、
こんな描き方で伝えることができるのかーと、後頭部をガツンとやられた気分。

ただただ、感服するばかり。。

ちなみに上映中、ちらほら女性のすすり泣く声が。
なんとなくの直観ですが、いつか付き合ってた元カレのことを思い出してしまうのでは??
と感じました。なんとなく、です。笑


記憶の奥底に眠る、美しい思い出の棚をノックしながら、
今の積み重ねを大切に生きてみようと優しく教えてくれる。
そんな、素晴らしい映画を観ることができたと思います。



おわり。
連載途中で止まってますが、別の記事を書きます。
(というか、面倒なので続きは書かないかも。。)

今月のあたま、
東北の海(宮城県七ヶ浜町)に行って、こんなことをやってきました。

『花の咲く海』
http://www.i-311.com/


-----------------------------------------------------------------------
あの日以来、東北の海は「なんとなく怖いもの」になってしまったように思う。

人を遠ざけ、ひょっとしたらそこにあるだけで、
人に心理的なストレスを与えうるものとなってしまったのかもしれない。

でも、きっと海そのものは悪くない。
ときとして自然の猛威をふるうことはあれど、普段はとても穏やかで、
日差しをきらきらと反射させる姿は大変美しい。

そう、先入観さえなければ、ここは素晴らしい場所なのである。

それは、例えば海に感情があるならば、
花柄模様になって砂浜に浮かび上がるくらいに――

そんな思いから、普段の晴れやかな海の感情を映しとるように、花柄模様を砂浜に描いた。
潮の満ち引きの関係で、制作時間は干潮時の 1 時間。
当日はサーファーの方々や、近くを通りかかった人たちに楽しんでもらえたようだった。

今回モチーフを「花」にしたのは、波が花柄模様の砂浜をさらう姿を、
花を海に浮かべて故人を偲ぶ「献花」になぞらえた、という思いもある。

しかし、そうした思いはさて置くとしても、
ひょっとしたらあなたの知らないところで海は砂浜に感情を滲ませ、笑ったりしているかも、
という想像を少しでも膨らませてくれたら嬉しい。

今後も定期的に描きに行きつつ、ギャラリーの方々も気軽に参加できるようにしたいと思う。

そして東北の海”なのに”ではなく、東北の海”だからこそ”楽しめる、そんな場所になったらいい。
-----------------------------------------------------------------------


言葉はとても難しいから、言いたいことを的確に表せているか不安なのだけど、
やりたかったのはそういうこと。


昨年8月、石巻でボランティアをする中で、
海外をぼうっと眺めながら、1年以上経ってもこの海が「コワイ」と感じてしまう自分がいて。

きっと現地の人なら、なおさらだろう。
コンクリートの石垣には一輪の花が添えられているだけで、
誰も近づかない場所になっていた。


そこからこの絵を思い出して、
$Apollo-12

砂浜ならもっと遊べると思った。

そうした活動を楽しみにしたり、現地の人が楽しんで行うことで、
楽しみがひとつ増えて、
そこには人が集まるようになって、
100円払えば誰かへの相合い傘とか描いてもらえるようになっちゃって、
砂浜からはゴミが消えて、
そのうちサンドアート大会が開かれるようになって...


そんな青写真のもと、
東北の海だからこそ楽しめるようにしたいと思って。


もともと年に一回、この時期に東北に関する何かをしたいと試行錯誤をしてて、
去年はこんなことをやってたりしたんですが、

「震災について考えたこと、やってみたこと」
http://ameblo.jp/ryrientar/entry-11194352104.html

今年はどうしようかなぁ、と思ってて。

メンバーにアイデアを相談してみたところ、いいねって言ってくれて、
でも結局動き出したのが2月の半ば。

一度、湘南の海にいって描く練習をして、
ほぼぶっつけ本番に近いカタチで3月のあたまに実施してきました。


Apollo-12

Apollo-12

Apollo-12


今回は試験的に、という意味合いが強かったので、
撮影はメンバーの一人に任せちゃったし、
なのに編集は自分でやることになってimovieでささっとやったので映像も雑だし、

ということでクオリティには全く満足してませんが、

夏にでももう一度行って、
今度はギャラリーの方々も気軽に参加できるようにできたらいいな、と思っています。



でも、こんな取り組みを行っていますが、

募金をすること。東北産品を買うこと。旅行に行くこと。
想い続けること。忘れないこと。

そうしたことと比べて、今回の活動が
よりアクティブだとか、よりすごいとか、そんな思いは1mmもないです。


少ないながらも募金をしたり旅行に行ったり、
ってことでしたら僕もささやかながらやってますが、

ただ、それだけだと、やはり難しい気がしてて。

現に、「震災のための消費行動が鈍化している」というニュースも出ていますが、
誰かへの同情や応援だけで行動をし続けられるほど、きっとみんな強くない。


東北を思い、行動することが、
普段の自分の生活を続けるための「免罪符」であってはいけない。


この国の人は忙しくて、実際目の前は大変なことばかりで、
もっとポジティブで、明るくて、楽しいことを普段はしたいはず。

そうした気持ちに少しでも沿うような、
他の行動や気持ちと比べて「上」や「下」ではなく、「横」の関係でいられるような、
そんな「僕らが僕らを続けながら、普段通りの中でできること」を探したくて。


今回の取り組みが、「それ」なのかは、僕にもわかりません。
意味のない、傲慢な活動である可能性も大いにあります。
きっと、「やり続ける」ことをしないと、そうなるのでしょう。

何が正解かはわからない。
でも、「何もしないこと」だけは不正解だと、ずっと思っている。


今回の取り組みを細々と続けていくことで、
現地の方々がたったひとりでも楽しんでくれたら、それでいいんだと思ってます。
SNSなどを通して知ってくれた友達のひとりでも意識や行動が変わってくれたら、それでいいんだと思ってます。

こうしてあがいてもがいて、
もっと効率的で効果的な意味のあるものを思いついたり、
あるいはすごく共感できる他の人の取り組みを知ったりしたときは、
そっちにシフトして、やれるだけやれればいいかなと思ってます。


自分の凡人さに呆れ返り、実力のなさに悲しくなることが多い毎日ですが、

それでも魂だけは死んでしまわないように、
やりたいことを見つけて、やり続けられるヒトでありたいと思います。

おわり。
後編②-2.です。

前回の記事の続きになります。

==================================================
公共物を市民に開放し、共につくる①
『市民とつくる公園』(有馬富士公園、泉佐野丘陵緑地)
==================================================

『市民とつくる公園』というテーマで、2つの事例を紹介します。

1つ目は、兵庫県三田市の有馬富士公園です。

Apollo-12
有馬富士公園全体。
http://arima-onsen.blog.ocn.ne.jp/from_arima/2007/06/post_5.htmlより抜粋。


公園が、10年経つと寂しい場所になる。
たしかにほとんど使われず、路上に放置されているような公園は多いと思います。

そんな思いがきっかけで、山崎さんが考案したのが
「パークマネジメントによる住民参加型の公園づくり」です。


そもそも、公園が目指すべき理想像は何なのか?

山崎さんの回答は、ディズニーランド。
夢のある様々なアトラクションやキャラクター、お店で溢れた夢の公園。

山崎さんによると、公園との比較で決定的に違うのは「キャスト」の存在。

確かに遊ぶ遊具はあれど、どう遊べばいいのか。また、ゴミは誰が掃除するのか。
ディズニーランドには、掃除をしながらお客さんをおもてなす「キャスト」がいる。

ディズニーランドのキャストさんによる素晴らしいサービスに関する逸話は絶えませんが、

掃除用のモップで床に絵を描いたり、
Apollo-12

警備員さんは落ち葉でハートつくっちゃったりします。
Apollo-12


すごいです。

これを整理すると、公園にはこうした「キャスト」がいない。
Apollo-12
http://arima-onsen.blog.ocn.ne.jp/from_arima/2007/06/post_5.htmlより抜粋。


だから、
「NPOの人たちに公園を開放する代わりに、『キャスト』としておもてなしてもらおう」
というコアコンセプトのもと、市民主導の公園づくりが行われました。

NPOといっても、自然観察や演奏会、ゴミ拾い団体など、
本当に趣味で始めたようなような、小さな活動ばかりです。

こうした団体を束ねる委員会を設置しながら、
多くの団体を集め、みんなで公園を拠点に活動していきました。


そうした構図をつくることで、
結果的に公園への来園者をおもてなしていることになります。

Apollo-12
自然観察プログラム。
http://arima-onsen.blog.ocn.ne.jp/from_arima/2007/06/post_5.htmlより抜粋。

Apollo-12
水辺の生き物観察。
http://arima-onsen.blog.ocn.ne.jp/from_arima/2007/06/post_5.htmlより抜粋。


結果、来園者も参加NPO団体も順調に増加しているそうです。


「運営する」という一番難しいところを、NPOの人たちに任せてしまう。

ありふれたように聞こえるそんなアイデアは、
実施することの方が何倍も難しく、そして強力である。

そのことを端的に示す事例ではないでしょうか。



また、もうひとつの『市民とつくる公園』の事例として、
泉佐野丘陵緑地の例をご紹介します。

Apollo-12
泉佐野丘陵緑地。
http://www.studio-l.org/projects/13.htmlより抜粋。


この緑地は大阪府が平成25年の開園に向けて整備している未来の公園で、
総額2億円相当の予算があることも決まっていました。


じゃあ、公園に必要なハコを1億9千万円つかってつくり、残り1千万円で運営するのか?


その結果が日本各地に点在している寂しい公園ならば、
違う方法をとった方がいい。

だとすれば、

予算の2割を公園の入り口といった最低限のハードの整備につかいつつ、
残り8割は公園を運営する人たちを育てつつ、彼らが本当に使いたい公園にしていく、
というソフトの充実に定期的に投資していく


という手法で現在整備が進んでいます。


具体的には、
公園を自らの手でつくる市民「パークレンジャー」を毎年育成しています。

Apollo-12
パークレンジャー。
http://www.studio-l.org/projects/13.htmlより抜粋。


パークレンジャーは、毎年20~30名ほど集まり、

「公園をどうしたいか」「どういった活動が公園を良くするか」など、
様々な講義とフィールドワークを受講しながら公園運営のプロに成長していきます。

Apollo-12
整備前の生物調査活動。
http://www.studio-l.org/projects/13.htmlより抜粋。

Apollo-12
年間を通じて行う養成講座の様子。
http://www.studio-l.org/projects/13.htmlより抜粋。


ここで特に素晴らしいと感じるのは、

毎年続けることで、パークレンジャーが自走化するコミュニティとなっている
ということです。


全11回にわたる養成講座を無事修了された方は正式なパークレンジャーとなり、
公園開発を推進しつつ、次年度以降の養成講座のファシリテーター補佐も務めます。

これによって人件費を抑えつつ、
持続的でコミットメントの強いコミュニティへと成長していく。

また、参加者の多くは地域の高齢住民ですが、
職をリタイアした人たちが社会と関わり続け、生き甲斐をもって生活する。


たかだか公園づくり、と思うかもしれませんが、
この公共物を通して営まれる新たな生きる喜びは、本当に素晴らしい価値を持っていると思います。

その街に住む高齢者たちが、自分の手で公園をつくる。
同じ街に住む子どもたちがそこで遊び、家族が微笑み楽しむ。
協賛する地元企業の人たちも公園運営に巻き込み、一緒に公園をつくっていく。

幸せは、手の届くところにある。


既にある公園には、「キャスト」を導入することでリデザインできるという視点。
これからつくる公園には、「市民を育てて仲間にする」ことで運営できるという視点。


こうした視点から公園を市民の手でつくり、運営していくことで、
この街に住むことへの誇りが醸成されていくのではないでしょうか。



==================================================
公共物を市民に開放し、共につくる②
『マルヤガーデンズ』
==================================================

Apollo-12
マルヤガーデンズ。
http://www.studio-l.org/projects/91.htmlより抜粋。


鹿児島県鹿児島市にある商業施設、マルヤガーデンズ。

マルヤガーデンズのある地区に訪れる人が年々減少する中、
このデパートをリノベーションしようという試みが行われました。


とはいっても、ただ店内を綺麗にしたり、魅力的なテナントを入れたりするだけでは、
不確実性の伴う大きな投資になり、地元住民から愛されるとも限りません。

そこで考案されたのは、

「各階のフロアの一部を解放し、市民が自由に活動拠点として使えるスペースにする」
という方法です。

Apollo-12
NPO法人PandAによるダンボールハウスワークショップ。
http://www.studio-l.org/projects/91.htmlより抜粋。


街の中心地にある広いスペースを、自分たちの団体が使って良い。
しかも多くの人が訪れるとあって、街の人たちに活動を知ってもらうチャンスにもなる。


地域には大小さまざまなNPO等のコミュニティがありますが、
運営本部を設けて審査通過した団体のためにスペースを解放する、という手法をとったところ、

オープン後半年でコミュニティプログラムは37種類に増加し、
月に約200のプログラムでお客さんをお出迎えしているそうです。

Apollo-12
スペースを利用する団体に向けたワークショップ。
http://www.studio-l.org/projects/91.htmlより抜粋。


デパートには興味なくても、コミュニティに用事があるから訪れる。
そのとき、様々な商品を目にしてついつい買ってしまう。

その逆も当然然り。
この街にとってなくてはならない存在になろうとしています。

また、この施設のファンを増やすことで、
様々な活動をレポートする人たちを市民から募り、養成して広報を行ってもらっています。


自分たちが普段使えるはずのない公共の場を自由に使える
というのは市民にとって大きな喜びになりますし、

それを陰で支える運営者たちがコーディネートするということも、
重要なエッセンスだと思います。



==================================================
大きな機関が小さな個人を祝福する①
『岩手日報の個人号外サービス「イワッテ」』
==================================================



2011年のカンヌ広告祭でMecia Lionsのゴールド賞を受賞した、
岩手日報の個人号外サービス「イワッテ」。


動画を観ていただければ説明は不要ですので省きますが、

個人が自由に扱えるわけもない大きな機関のものを
市民たちに解放して自由に活用してもらうという視点は、
先の「有馬富士公園」「泉佐野丘陵緑地」「マルヤガーデンズ」にも似通った部分があります。

ですが、ここでは「新聞」という媒体特性に「祝う」という行為が伴って、
あたかも町全体で協力し合ってお祝いしているかのような良い錯覚を覚えさせている
ことは大きなポイントだと思います。


自分の町だけ、自分のハッピーを、同じ町に住むみんなに向けて報告できる。
自分の存在が知れ渡るとともに、色々な人からお祝いされる。

新聞という、衰退傾向にある媒体の価値を高めるだけでなく、
町との絆が芽生えさせ、シビックプライドを醸成できるという素晴らしい価値があると思います。



==================================================
大きな機関が小さな個人を祝福する②
『君の椅子』
==================================================

Apollo-12
君の椅子
http://town.higashikawa.hokkaido.jp/chair/index.htmより抜粋。

北海道東川町では、2005年に合計特殊出生率がはじめて1.3を割り込み、
幼児虐待のニュースも日常化していました。

「新たな生命の誕生を、地域住民みんなで喜び合えるコミュニティを取り戻したい」

そうして生まれたのが、「君の椅子プロジェクト」。
地域で子どもが1人生まれると、その子のために街からオリジナルの椅子を贈る仕組みです。

Apollo-12

Apollo-12
東神楽町で2012年第1号の椅子を贈られた「みらいちゃん」。
http://ameblo.jp/kyonroudge-kk/theme-10055143779.htmlより抜粋。


この取り組みは、

「北海道にはもともと、子どもが生まれると花火を打ち上げ喜びを分かち合う文化がある」
という旭川大学の先生の言葉がきっかけで、

そこから、
「町長が『君の居場所はここにあるからね』と手渡しで椅子を贈る」
という素晴らしいアイデアに結びついていったそうです。

Apollo-12
贈呈式。
http://ameblo.jp/kyonroudge-kk/theme-10055143779.htmlより抜粋。


また、この椅子の制作を行っているのは地元の名工「旭川家具」だそうで、
地域の主要産業を地域の内外に発信するといった意味合いもあります。

制作の際には、このプロジェクトに共感していただいた
著名なアーティスト・デザイナーさんが参画されているそうで、

毎年違ったデザインの椅子を制作し、
裏面には子どもの名前・生年月日・ロゴなどが印字されることで、
あなただけの、世界にひとつだけの椅子になります。


生まれたときからこの街にはあなたの居場所があり、
たとえ将来この土地を離れることがあっても、戻る場所がある。
そんなこの町のことを、どうか誇りに思ってほしい。

そんなメッセージを込めて手渡しているそうです。

Apollo-12
毎年制作された椅子が展示されている。
http://woodcaffee.blog106.fc2.com/blog-entry-1008.htmlより抜粋。


その結果、町では「今年の椅子はどんなデザインだろう?」と話題になりますし、

何よりスタートから今年で9年目となるので、
小学校低学年までの子どもがいる家庭にはすべてこの「君の椅子」があるという、
本当に素晴らしいことが実際に起きています。


こうした活動を受け、町外でも個人でも参加できる「君の椅子倶楽部」が発足し、
この取り組みをテーマにしたCDも発売されているのだとか。

Apollo-12
2011年3月11日に生まれた藤田一輝ちゃん。出身が福島でも参加が可能。
http://www.asahi.com/news/intro/HOK201301040005.htmlより抜粋。

Apollo-12

Apollo-12
レコーディング風景。
http://blog.dmj.fm/archives/11375463.htmlより抜粋。


町が市民のために、個人に合わせた誕生日プレゼントを贈るという視点。
「居場所はつくり、守り、見守る」という想いを「椅子」というかたちで表現する、という視点。


どれをとっても、本当に素晴らしい取り組みだと思います。


「自分ひとりのために動いてくれるわけがない」と思われている大きな行政機関が、
こうした市民(しかも子ども!)ひとりひとりと向き合って、プレゼントをする。

そんな素晴らしいことが出来れば、市民として誇りを持つようになるのも当然な気がします。



==================================================
②公共物(ハード)を介してシビックプライドを醸成する
まとめ②
==================================================

記事を2つに分けて様々な事例を紹介して参りましたが、

②公共物(ハード)を介してシビックプライドを醸成する
という方法論のまとめ②です。



公共物を市民に開放し、共につくる

『有馬富士公園』『泉佐野丘陵緑地』『マルヤガーデンズ』でみたように、

みんなでつかう公共物を市民と一緒につくる、というのは、
そこで暮らす人々にとってはとてもワクワクすることなのではないでしょうか。

それは、
既にある公園を解放して市民を「キャスト」に育て上げてしまうことかもしれませんし、
これからつくる公園を一緒につくりあげていくことかもしれませんし、
市民が集う商業施設を一部市民のスペースとして解放してしまうことかもしれません。

忘れてはならないのは、単に公共物を解放するだけではなく、
それをコーディネートする運営母体があること
そして市民を育ててどんどん自分たちの味方にしていくことです。



大きな機関が小さな個人を祝福する

『イワッテ』『君の椅子』でみたように、

自分のようないち個人に振り向いてくれもしない(気がする)大きな機関から、
「あなたのことを見守ってますし、素敵なことがあればお祝いさせてください」
と言われると、自分の居場所がたしかにここにある、と満たされた気持ちになります。

それは、
新聞のようなマス媒体が個人のハッピーをお祝いしてくれることなのかもしれませんし、
町の行政機関が、「あなたの居場所はここにありますよ」と椅子をプレゼントしてくれることなのかもしれません。

市民に平等に訪れる祝福のタイミングは限られているからこそ、
大きな機関であっても、個々人にきちんと向き合ったお祝いが出来る
のだと思います。



利他的な行動の最も理想的なかたちは、きっと、
本人が利他的だとも思わずに、近くの他人に明るく、優しく声をかけることなのだと思います。

それが仮に全員できれば、そのあたたかさはきっと、めぐりめぐって全員に届く。

シビックプライド、自分の住む街に誇りを持つということは、
そういうあたたかさを、みんなで共有できる街をつくることなのだと思います。



次回は、最後。

公共物なんてつくる予算もつかう権利もないよ、となった場合にも、
コミュニティをつくる方法を探っていきます。


thank you.