タイトルの通りなのですが、
ブログをコチラに引っ越しました。
Apollo 12.5
http://ryrientar.hatenablog.com
理由にもならない理由とか、想いとかは、
全部移転先の、最初のエントリーの通りです。
どこまで更新頻度を上げられるかわかりませんが、
もう少し有意義な使い方ができれば...と思います。
よろしくお願いします!
今回は、最近見聞きしたものやそれらを通して感じている、
ぼやっとした「時代の気分」について考察します。
ソーシャル、つながり、絆...
そうしたものが、
特に震災以降に叫ばれてから、2年ほど経ちました。
当時は「滅私奉公」「一致団結」
といったコトバやキモチが人々の心の中のどこかにはあったし、
社会的使命を帯びた大義名分のもと、
"大きなことをみんなで成し得よう"とする風潮が強かった。
逆に言うと、個の存在よりも「みんなで」「大きなこと」が重要だったんだと思います。
そうしたことは、テレビの企画や企業のキャンペーンでも当然見られたし、

24時間テレビ「+1」
映画「海猿」の大ヒットで拍車がかかり、

映画「BRAVE HEARTS 海猿」
そしてロンドンオリンピックで、ある意味フィナーレを迎えた、
と勝手に思っている。

ロンドンオリンピック
こうした震災以後から昨年のオリンピックまでの風潮を振り返りながら、
「じゃあ今は?」と考えると、あきらかに時代の空気が違うように思う。
それは何か?
「みんなで」「大きなこと」の逆にあたる、
「個々のチカラ、強さ」が大きな共感を集めている気がしています。
カロリーメイト CM|新社会人へ篇 90秒
NIKE CM|宣誓、我々はというか僕に注目してください
toto CM | 「最後の試合」篇 90秒
最近注目を集めたこれらのCMも、時代の気分が
「個々のチカラ、強さ」に傾いてきた兆候ではないか、と勘ぐっていますが、
もしそうなのだとしたら、それはなぜかを考えてみる。
---
※ちなみに「最後の試合」だけは、あまり共感できなかった。
その理由を述べると本文から逸れるので書きませんが、
http://blog.szk.cc/2013/05/23/fake-in-the-real/ のブログと同様のことを感じています。
---
ヒントは、遠く自分と関係のないどこか、にあるのではなく、
いつも身近に触れている何か、にある気がします。
ヒント①、
例えば昨今、
自分たちでつくる「なんちゃってAKB」みたいなのが大学生の間で流行っている。

パジャコレ

日本ツインテール協会

待ち合わせ美女/美男
※
どれも知り合いが出演していて、取り上げづらいですが...
ディスってるとかではなく、あくまで現象として面白いので考察させてください。
僕がこれらを「なんちゃってAKB」と呼んだのは、
ある一点で共通点があると思うからです。
それは、
「個が引き立つ、魅力的なパッケージを開発している」という視点。
僕は正直、AKBや上記の活動にあまり興味がないのですが、
でも、例えばAKBだと、
「AKBだから」という理由だけで注目されている女の子がいるのは知っている。
もっといえば、街でただすれ違うだけでは注目しなかったはずの女の子たちを、
「AKBだから」という理由だけで興味を持つようになっている。
つまり、「AKB」というフレームに入ってしまえば、
フレームの中の個の存在が急に引き立つ、ということです。
そして、それは、十分"代替し得る"。
「AKBの」女の子。
「パジャマを着た」女の子。
「ツインテールの」女の子。
「待ち合わせをする」女の子。
従来のアイドルに求められてきた「女の子そのもの」、つまり容姿や体型に依存しない、
人々から注目を浴びる魅力的な装飾語(フレーム)を開発する、という方法論。
こうしたフレームを自分たちで開発し、
「自分という個」の存在を効果的に主張する、といった動きが、いま、
女の子たちの間でくっきりと見られはじめているのではないか。
ヒント②、
例えば昨今、
マカンコウサッポウをはじめとした「自分で撮れる」面白写真ブームが到来しています。

マカンコウサッポウ

ロッカー

スターウォーズ「フォース」ごっこ

走り幅跳び

進撃の巨人ごっこ
こうした写真が出回る以前は、絶景などの
"誰もが撮れるわけではない"大変美しい写真がよく出回っていた気もしますが、
逆に言えば、"誰も真似して撮れない"から、
写真をみた者が面白がって自発的に広めてくれる機会も少なかった。
そこにきて、マカンコウサッポウをきっかけに増殖した、
「自分で撮れる」面白写真ブーム。
こうすれば、あなたにも他人に見てもらえるような魅力的な写真が撮れますよ、
という「フレーム」の提案。
そう、つまり、
先程のパジャマやツインテールと本質は変わらないのではないか、と思っています。
※
このはしりは、主婦の間で流行った寝相アートだと思います。
ワタリウム美術館で開催中のJRが実施する「Inside out」も、個の存在を強調するフレーム。
こうした「コンテンツそのもの」ではなく、
「マネすることで個が引き立つフレーム」がウケるのは、
震災以後の風潮と、SNSの流布、そして
アベノミクスを発端とした社会の上向き感が、全くの無関係だとは思わない。
震災後に生まれた「復興支援」という大義名分は、
多くの人々に「みんなで大きなこと」を要求し、
「個人の目立ちたがりな欲求」を、ココロの奥の方へと押しやる強さがあった。
それは、メディアのチカラによってどうこう、というより、
SNSでの様々な論争がそうさせた、とも感じていて。
「不謹慎」といったワードが狂気的に人々に向けられ、
"下手のことをいうと叩かれる"という空気が蔓延してて、
一時期、本当にtwitterが使いづらかった。
FacebookやLINEといったクローズドなコミュニケーションツールが
人々に受け入れられたのは、それと無関係だとも思わない。
そうやって、「情報の海」に喩えられたネット上で、
自分の存在を隠すようにコミュニケーションを続けてきたわけだけど。
震災報道も落ち着いて、
アベノミクスがはじまって、
経済がなんとなく上向きかけながらも、
いじめ問題とか、体罰問題とか、ナショナルブランドの没落とか、
良いのか悪いのかよくわからない、
混沌とした時代がやってきた。
でも、すがるべき大義名分は、もうない。
みんなをまとめる「何か」が、失われてしまった。
そうした中で、ふつふつと人々のココロに芽生えてきたもの。
それが、
こんな時代でも「ひとりでも歩いていく」強さ、とか、
SNSの情報に埋もれず「その他大勢の一人」にならない目立つ特徴、とか、
そういった「個々のチカラ、強さ」なんじゃないか。
(そんなわけねーだろ、という強引な考察、かもしれませんが。苦笑)
でも、いま人々の心の中にあるなぁ、と思うものは、
「みんな」でやっても、自分に注目が集まらないもどかしさ、とか、
「みんな」でできたところで、自分ひとりじゃ何もできないやるせなさ、とか、
地道に努力し続けることでしか強くなれないかもなぁ、という諦めと肯定、とか
効率良く自分に注目が集まるようなものないかなぁ、というずる賢さ、とか。
だから、魅力的なフレームはウケるし、
「ひとりの"頑張る""主張する""肯定する"強さ」を描いたCMが共感を呼ぶんだと思いました。
SNSも十分慣れたから、
だからこそ単なるコミュニケーションツールではない、
それを使いこなして自分を主張する「PRツール」へともっと変化していくのだと思います。
で、この先この時代の気分は、どこいくのだろう?
なんとなく予測可能なのは、
「ナショナリズム」の復興、でしょうか。
根拠は来年のW杯で、
その頃には「日本のために」という大義名分が復活することが予想されます。
今週末や来月にも予選があって、
年末頃に代表の発表があって...徐々に、ナショナリズムが形成されていきます。
でも、滅私奉公で、一致団結して...
といった、優しいものではない気がして。
いま、日本が国際的に弱い国だということは、
おそらく多くの人が気がついています。
そして、
個々人が頑張った先にしか、
そこから脱却できる希望がないことも。
こうした時代背景で迎えるW杯ですから、
この時期に実施するキャンペーンは、
魅力的なフレームを売り込み、もっと生活者を信頼して委ねるような、
各自の存在や主張が引き立つものにしていったほうがいいし、
きっとそうなると思う。
だらだらと書いてしまいましたが、
なんとなくそんなことを最近ぼんやりと思っています。
うまくこの感覚を活かした企画をしてみたくて、
現在絶賛苦闘中、です。
thank you.
ぼやっとした「時代の気分」について考察します。
ソーシャル、つながり、絆...
そうしたものが、
特に震災以降に叫ばれてから、2年ほど経ちました。
当時は「滅私奉公」「一致団結」
といったコトバやキモチが人々の心の中のどこかにはあったし、
社会的使命を帯びた大義名分のもと、
"大きなことをみんなで成し得よう"とする風潮が強かった。
逆に言うと、個の存在よりも「みんなで」「大きなこと」が重要だったんだと思います。
そうしたことは、テレビの企画や企業のキャンペーンでも当然見られたし、

24時間テレビ「+1」
映画「海猿」の大ヒットで拍車がかかり、

映画「BRAVE HEARTS 海猿」
そしてロンドンオリンピックで、ある意味フィナーレを迎えた、
と勝手に思っている。

ロンドンオリンピック
こうした震災以後から昨年のオリンピックまでの風潮を振り返りながら、
「じゃあ今は?」と考えると、あきらかに時代の空気が違うように思う。
それは何か?
「みんなで」「大きなこと」の逆にあたる、
「個々のチカラ、強さ」が大きな共感を集めている気がしています。
カロリーメイト CM|新社会人へ篇 90秒
NIKE CM|宣誓、我々はというか僕に注目してください
toto CM | 「最後の試合」篇 90秒
最近注目を集めたこれらのCMも、時代の気分が
「個々のチカラ、強さ」に傾いてきた兆候ではないか、と勘ぐっていますが、
もしそうなのだとしたら、それはなぜかを考えてみる。
---
※ちなみに「最後の試合」だけは、あまり共感できなかった。
その理由を述べると本文から逸れるので書きませんが、
http://blog.szk.cc/2013/05/23/fake-in-the-real/ のブログと同様のことを感じています。
---
ヒントは、遠く自分と関係のないどこか、にあるのではなく、
いつも身近に触れている何か、にある気がします。
ヒント①、
例えば昨今、
自分たちでつくる「なんちゃってAKB」みたいなのが大学生の間で流行っている。

パジャコレ

日本ツインテール協会

待ち合わせ美女/美男
※
どれも知り合いが出演していて、取り上げづらいですが...
ディスってるとかではなく、あくまで現象として面白いので考察させてください。
僕がこれらを「なんちゃってAKB」と呼んだのは、
ある一点で共通点があると思うからです。
それは、
「個が引き立つ、魅力的なパッケージを開発している」という視点。
僕は正直、AKBや上記の活動にあまり興味がないのですが、
でも、例えばAKBだと、
「AKBだから」という理由だけで注目されている女の子がいるのは知っている。
もっといえば、街でただすれ違うだけでは注目しなかったはずの女の子たちを、
「AKBだから」という理由だけで興味を持つようになっている。
つまり、「AKB」というフレームに入ってしまえば、
フレームの中の個の存在が急に引き立つ、ということです。
そして、それは、十分"代替し得る"。
「AKBの」女の子。
「パジャマを着た」女の子。
「ツインテールの」女の子。
「待ち合わせをする」女の子。
従来のアイドルに求められてきた「女の子そのもの」、つまり容姿や体型に依存しない、
人々から注目を浴びる魅力的な装飾語(フレーム)を開発する、という方法論。
こうしたフレームを自分たちで開発し、
「自分という個」の存在を効果的に主張する、といった動きが、いま、
女の子たちの間でくっきりと見られはじめているのではないか。
ヒント②、
例えば昨今、
マカンコウサッポウをはじめとした「自分で撮れる」面白写真ブームが到来しています。

マカンコウサッポウ

ロッカー

スターウォーズ「フォース」ごっこ

走り幅跳び

進撃の巨人ごっこ
こうした写真が出回る以前は、絶景などの
"誰もが撮れるわけではない"大変美しい写真がよく出回っていた気もしますが、
逆に言えば、"誰も真似して撮れない"から、
写真をみた者が面白がって自発的に広めてくれる機会も少なかった。
そこにきて、マカンコウサッポウをきっかけに増殖した、
「自分で撮れる」面白写真ブーム。
こうすれば、あなたにも他人に見てもらえるような魅力的な写真が撮れますよ、
という「フレーム」の提案。
そう、つまり、
先程のパジャマやツインテールと本質は変わらないのではないか、と思っています。
※
このはしりは、主婦の間で流行った寝相アートだと思います。
ワタリウム美術館で開催中のJRが実施する「Inside out」も、個の存在を強調するフレーム。
こうした「コンテンツそのもの」ではなく、
「マネすることで個が引き立つフレーム」がウケるのは、
震災以後の風潮と、SNSの流布、そして
アベノミクスを発端とした社会の上向き感が、全くの無関係だとは思わない。
震災後に生まれた「復興支援」という大義名分は、
多くの人々に「みんなで大きなこと」を要求し、
「個人の目立ちたがりな欲求」を、ココロの奥の方へと押しやる強さがあった。
それは、メディアのチカラによってどうこう、というより、
SNSでの様々な論争がそうさせた、とも感じていて。
「不謹慎」といったワードが狂気的に人々に向けられ、
"下手のことをいうと叩かれる"という空気が蔓延してて、
一時期、本当にtwitterが使いづらかった。
FacebookやLINEといったクローズドなコミュニケーションツールが
人々に受け入れられたのは、それと無関係だとも思わない。
そうやって、「情報の海」に喩えられたネット上で、
自分の存在を隠すようにコミュニケーションを続けてきたわけだけど。
震災報道も落ち着いて、
アベノミクスがはじまって、
経済がなんとなく上向きかけながらも、
いじめ問題とか、体罰問題とか、ナショナルブランドの没落とか、
良いのか悪いのかよくわからない、
混沌とした時代がやってきた。
でも、すがるべき大義名分は、もうない。
みんなをまとめる「何か」が、失われてしまった。
そうした中で、ふつふつと人々のココロに芽生えてきたもの。
それが、
こんな時代でも「ひとりでも歩いていく」強さ、とか、
SNSの情報に埋もれず「その他大勢の一人」にならない目立つ特徴、とか、
そういった「個々のチカラ、強さ」なんじゃないか。
(そんなわけねーだろ、という強引な考察、かもしれませんが。苦笑)
でも、いま人々の心の中にあるなぁ、と思うものは、
「みんな」でやっても、自分に注目が集まらないもどかしさ、とか、
「みんな」でできたところで、自分ひとりじゃ何もできないやるせなさ、とか、
地道に努力し続けることでしか強くなれないかもなぁ、という諦めと肯定、とか
効率良く自分に注目が集まるようなものないかなぁ、というずる賢さ、とか。
だから、魅力的なフレームはウケるし、
「ひとりの"頑張る""主張する""肯定する"強さ」を描いたCMが共感を呼ぶんだと思いました。
SNSも十分慣れたから、
だからこそ単なるコミュニケーションツールではない、
それを使いこなして自分を主張する「PRツール」へともっと変化していくのだと思います。
で、この先この時代の気分は、どこいくのだろう?
なんとなく予測可能なのは、
「ナショナリズム」の復興、でしょうか。
根拠は来年のW杯で、
その頃には「日本のために」という大義名分が復活することが予想されます。
今週末や来月にも予選があって、
年末頃に代表の発表があって...徐々に、ナショナリズムが形成されていきます。
でも、滅私奉公で、一致団結して...
といった、優しいものではない気がして。
いま、日本が国際的に弱い国だということは、
おそらく多くの人が気がついています。
そして、
個々人が頑張った先にしか、
そこから脱却できる希望がないことも。
こうした時代背景で迎えるW杯ですから、
この時期に実施するキャンペーンは、
魅力的なフレームを売り込み、もっと生活者を信頼して委ねるような、
各自の存在や主張が引き立つものにしていったほうがいいし、
きっとそうなると思う。
だらだらと書いてしまいましたが、
なんとなくそんなことを最近ぼんやりと思っています。
うまくこの感覚を活かした企画をしてみたくて、
現在絶賛苦闘中、です。
thank you.
今回は、
前々から気になっている表現についての考察。
最近、「記憶に残らないスピードでたたみかける」という
表現方法について関心があります。
MOVE (STA Travel Australia)
iPhone5CM 2013
Keio Global | Shaping History, Shaping Tomorrow(augment5)
これらの映像は、
どれも「すげー!」と唸ってしまうものばかりですが、
その要因を「音に合わせてリズミカルだから」と
表層的に片付けるのは簡単なので、もう少し考えてみる。
面白いと思うのは、
「それぞれの映像は記憶に残らなくていい」というスタンスだと思います。
例えばひとつ目のMOVEでは、
画面中央の男性がこちらへ向かってくる、という構図はそのまま、
コンマ何秒単位で次々とオーストラリアの美しく、刺激的な場所が映し出されます。
よくNHKなどで放映される、
日本の美しい景色を収めたプロモーション動画をみればよくわかりますが、
映し出されるそれぞれの場所に対する印象、知識を味わい深く残すため、
尺をじっくりとって、きちんと情景をみせようとする。
コンマ何秒での映像の切り替えスピードで国の紹介をしよう、という構成は、
国の魅力をあますところなく丁寧に伝えようとすると、非常に取りにくい表現方法な気がします。
しかし、MOVEもそうですが、
「iPhone5」でたたみかけるように表示される言葉たち、
「Keio Global」で次々と映し出される日本の風景たち、
それらを通して伝えたいことは、
ひとつひとつの言葉や風景の持つ意味性や素晴らしさよりも、
それらをギュッと凝縮したときにこそ感じる、
「なんかわからないけど、とにかくいい...!」という、
もし対象物に触れることになったら感じるであろう、
滲み出て、溢れるような"情緒性"そのものな気がしています。
こうした表現は、歌にもありますね。
美しき思い出 - amazarashi
(PVがないようで...サビの直前の部分です)
それぞれの言葉や映像が持つ意味は、
きっとすごくいいものなのだろうけど、しっかりと受け止めきれない。
しかし、そうしているうちに、
たたみかけるように次々と表現が投げかけられる。
濃密な時間の向こう側で感じるは、
自分の内側を流れ、混り合い、そして溢れだす情緒。
そして、最後に残るのは、
「なんかわからないけど、とにかくいいなこれ...!」という突き抜けた読後感。
自分の中でうまく消化されず、説明できないからこそ、
「これやばい!」という感情の発散欲が生まれ、
「これみて感じてくれ!」という、わかってほしい欲が生まれる気がします。
伝えたいことがあったとき、
それをそのまま説明的に伝えて"納得"してもらうのではなく、
伝わった後に残る感覚をそのまま感情的に"体感"してもらう。
「記憶に残さない」ことで「感情を残す」
という考え方と、それを実現する表現方法に、
少し八ッとしてしまいました。
理由のある「好き」より。
理由のわからない「好き」の方が、断然強いなぁ。
おわり
前々から気になっている表現についての考察。
最近、「記憶に残らないスピードでたたみかける」という
表現方法について関心があります。
MOVE (STA Travel Australia)
iPhone5CM 2013
Keio Global | Shaping History, Shaping Tomorrow(augment5)
これらの映像は、
どれも「すげー!」と唸ってしまうものばかりですが、
その要因を「音に合わせてリズミカルだから」と
表層的に片付けるのは簡単なので、もう少し考えてみる。
面白いと思うのは、
「それぞれの映像は記憶に残らなくていい」というスタンスだと思います。
例えばひとつ目のMOVEでは、
画面中央の男性がこちらへ向かってくる、という構図はそのまま、
コンマ何秒単位で次々とオーストラリアの美しく、刺激的な場所が映し出されます。
よくNHKなどで放映される、
日本の美しい景色を収めたプロモーション動画をみればよくわかりますが、
映し出されるそれぞれの場所に対する印象、知識を味わい深く残すため、
尺をじっくりとって、きちんと情景をみせようとする。
コンマ何秒での映像の切り替えスピードで国の紹介をしよう、という構成は、
国の魅力をあますところなく丁寧に伝えようとすると、非常に取りにくい表現方法な気がします。
しかし、MOVEもそうですが、
「iPhone5」でたたみかけるように表示される言葉たち、
「Keio Global」で次々と映し出される日本の風景たち、
それらを通して伝えたいことは、
ひとつひとつの言葉や風景の持つ意味性や素晴らしさよりも、
それらをギュッと凝縮したときにこそ感じる、
「なんかわからないけど、とにかくいい...!」という、
もし対象物に触れることになったら感じるであろう、
滲み出て、溢れるような"情緒性"そのものな気がしています。
こうした表現は、歌にもありますね。
美しき思い出 - amazarashi
(PVがないようで...サビの直前の部分です)
それぞれの言葉や映像が持つ意味は、
きっとすごくいいものなのだろうけど、しっかりと受け止めきれない。
しかし、そうしているうちに、
たたみかけるように次々と表現が投げかけられる。
濃密な時間の向こう側で感じるは、
自分の内側を流れ、混り合い、そして溢れだす情緒。
そして、最後に残るのは、
「なんかわからないけど、とにかくいいなこれ...!」という突き抜けた読後感。
自分の中でうまく消化されず、説明できないからこそ、
「これやばい!」という感情の発散欲が生まれ、
「これみて感じてくれ!」という、わかってほしい欲が生まれる気がします。
伝えたいことがあったとき、
それをそのまま説明的に伝えて"納得"してもらうのではなく、
伝わった後に残る感覚をそのまま感情的に"体感"してもらう。
「記憶に残さない」ことで「感情を残す」
という考え方と、それを実現する表現方法に、
少し八ッとしてしまいました。
理由のある「好き」より。
理由のわからない「好き」の方が、断然強いなぁ。
おわり
